茶の本 / 第二章 茶の諸流・七椀の歌
一椀喉吻潤い、二椀孤悶を破る。三椀枯腸をさぐる。惟う文字五千巻有り。四椀軽汗を発す。平生不平の事ことごとく毛孔に向かって散ず。五椀肌骨清し。六椀仙霊に通ず。七椀吃し得ざるに也ただ覚ゆ両腋習々清風の生ずるを。蓬莱山はいずくにかある 玉川子この清風に乗じて帰りなんと欲す(一七)。
書き下し
一椀喉吻潤い、二椀孤悶を破る。三椀枯腸をさぐる。惟う文字五千巻有り。四椀軽汗を発す。平生不平の事、ことごとく毛孔に向かって散ず。五椀肌骨清し。六椀仙霊に通ず。七椀吃し得ざるに、也ただ覚ゆ、両腋習々清風の生ずるを。蓬莱山はいずくにかある。玉川子、この清風に乗じて帰りなんと欲す。
現代語訳
一杯目は喉と唇を潤す。二杯目は一人の悶えを破る。三杯目は枯れた腸をさぐる。思えば文字が五千巻ある。四杯目は軽く汗が出る。日ごろの不平がことごとく毛穴に向かって散っていく。五杯目は肌も骨も清らかになる。六杯目は仙人の霊に通じる。七杯目は飲みきらないうちに、ただ両脇からそよそよと清らかな風が生まれるのを覚える。蓬莱山はどこにあるのか。玉川子はこの清らかな風に乗って帰りたいと思う。
解説
唐の盧仝の作で、七椀の歌として知られる一節です。一杯ごとに身体から精神へ、そして仙界へと段階が上がっていく構成になっています。注目したいのは四杯目で、日ごろの不平が毛穴から散る、という句。茶が気晴らしとして働く様子を、これ以上ないほど具体的に書いています。飲む行為が段階を持つという発想は、のちの茶道の作法にもつながる。この本の中で、茶がもたらす変化をもっとも詩的に示した箇所です。
この章句が説くこと
茶詩段階解放仙境
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