茶の本 / 第二章 茶の諸流・塩や葱とともに煮る
四五世紀のころには、揚子江流域住民の愛好飲料となった。このころに至って始めて、現代用いている「茶」という表意文字が造られたのである。これは明らかに、古い「梌」の字の俗字であろう。南朝の詩人は「液体硬玉の泡沫」を熱烈に崇拝した跡が見えている。また帝王は、高官の者の勲功に対して上製の茶を贈与したものである。しかし、この時期における茶の飲み方はきわめて原始的なものであった。茶の葉を蒸して臼に入れてつき、団子として、米、薑、塩、橘皮、香料、牛乳等、時には葱とともに煮るのであった。この習慣は現今チベット人および蒙古種族の間に行なわれていて、彼らはこれらの混合物で一種の妙なシロップを造るのである。ロシア人がレモンの切れを用いるのは――彼らはシナの隊商宿から茶を飲むことを覚えたのであるが――この古代の茶の飲み方が残っていることを示している。
書き下し
四五世紀のころには、揚子江流域住民の愛好飲料となった。このころに至って始めて、現代用いている「茶」という表意文字が造られたのである。これは明らかに、古い「梌」の字の俗字であろう。南朝の詩人は「液体硬玉の泡沫」を熱烈に崇拝した跡が見えている。また帝王は、高官の者の勲功に対して上製の茶を贈与したものである。しかし、この時期における茶の飲み方はきわめて原始的なものであった。茶の葉を蒸して臼に入れてつき、団子として、米、薑、塩、橘皮、香料、牛乳等、時には葱とともに煮るのであった。この習慣は現今チベット人および蒙古種族の間に行なわれていて、彼らはこれらの混合物で一種の妙なシロップを造るのである。ロシア人がレモンの切れを用いるのは――彼らはシナの隊商宿から茶を飲むことを覚えたのであるが――この古代の茶の飲み方が残っていることを示している。
現代語訳
四、五世紀のころには、長江流域の住民の好む飲み物になりました。このころになって初めて、今使っている茶という文字が作られました。これは明らかに古い字の俗字でしょう。南朝の詩人が、液体の硬玉の泡と呼んで熱烈に讃えた跡が見えます。また帝王は、高官の功績に対して上等の茶を贈ったものです。しかしこの時期の茶の飲み方はきわめて素朴なものでした。茶の葉を蒸して臼でつき、団子にして、米、生姜、塩、みかんの皮、香料、牛乳など、ときには葱とともに煮たのです。この習慣は今もチベット人やモンゴル系の人々の間で行われており、彼らはこれらの混ぜ物で一種の妙なシロップを作ります。ロシア人がレモンの切れを使うのは、彼らは中国の隊商宿で茶を飲むことを覚えたのですが、この古代の飲み方が残っていることを示しています。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『茶の本』第一章 人情の碗・ヨーロッパに茶が伝わるまでヨーロッパにおける茶についての最も古い記事は、アラビヤの旅行者の物語にあると言われていて、八七九年以後、広東における主要なる歳入の財源は塩と茶の税であったと述べてある。マルコポーロは、シナの市舶司が茶税を勝手に増したために一二八五年免職になったことを記録している。ヨーロッパ人が極東についていっそう多く知り始めたのは、実に大発見時代のころである。十六世紀の終わりにオランダ人は、東洋において灌木の葉からさわやかな飲料が造られることを報じた。ジオヴァーニ・バティスタ・ラムージオ、エル・アルメイダ、マフェノ、タレイラらの旅行者たちもまた茶のことを述べている。一六一〇年に、オランダ東インド会社の船がヨーロッパに初めて茶を輸入した。一六三六年にはフランスに伝わり、一六三八年にはロシアにまで達した。英国は一六五〇年これを喜び迎えて、「かの卓絶せる、かつすべての医者の推奨するシナ飲料、シナ人はこれをチャと呼び、他国民はこれをテイまたはティーと呼ぶ」と言っていた。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・茶は薬として重んぜられた南シナの産なる茶の木は、ごく早い時代からシナの植物学界および薬物学界に知られていた。古典には、梌、蔎、荈、檟、茗、というようないろいろな名前で書いてあって、疲労をいやし、精神をさわやかにし、意志を強くし、視力をととのえる効能があるために大いに重んぜられた。ただに内服薬として服用せられたのみならず、しばしばリューマチの痛みを軽減するために、煉薬として外用薬にも用いられた。道教徒は、不死の霊薬の重要な成分たることを主張した。仏教徒は、彼らが長時間の黙想中に、睡魔予防剤として広くこれを服用した。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・粉茶は全く忘れられている不幸にして十三世紀、蒙古種族の突如として起こるにあい、元朝の暴政によってシナはついに劫掠征服せられ、宋代文化の所産はことごとく破壊せらるるに至った。十七世紀の中葉に国家再興を企ててシナ本国から起こった明朝は、内紛のために悩まされ、次いで十八世紀、シナはふたたび北狄満州人の支配するところとなった。風俗習慣は変じて昔日の面影もなくなった。粉茶は全く忘れられている。明の一訓詁学者は、宋代典籍の一にあげてある茶筅の形状を思い起こすに苦しんでいる。現今の茶は、葉を碗に入れて湯に浸して飲むのである。西洋の諸国が古い喫茶法を知らない理由は、ヨーロッパ人は明朝の末期に茶を知ったばかりであるという事実によって説明ができるのである。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・一個の碗から聖餐のように王元之は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快な苦味は善言の余馨を思わせると言った。蘇東坡は茶の清浄無垢な力について、真に有徳の君子のごとく汚すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教義を多く交じえた南方の禅宗が、苦心丹精の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨の像の前に集まって、ただ一個の碗から聖餐のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して、十五世紀における日本の茶の湯となった。
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『茶の本』第一章 人情の碗・茶は薬用として始まった茶は薬用として始まり、後に飲料となる。シナにおいては八世紀に、高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り、日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事のなかに存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・陸羽と『茶経』茶をその粗野な状態から脱して理想の域に達せしめるには、実に唐朝の時代精神を要した。八世紀の中葉に出た陸羽をもって茶道の鼻祖とする。かれは、仏、道、儒教が互いに混淆せんとしている時代に生まれた。その時代の汎神論的象徴主義に促されて、人は特殊の物のなかに万有の反映を見るようになった。詩人陸羽は、茶の湯に万有を支配しているものと同一の調和と秩序を認めた。彼はその有名な著作『茶経』において、茶道を組織立てたのである。爾来彼は、シナの茶をひさぐ者の保護神としてあがめられている。