茶の本 / 第二章 茶の諸流・茶は薬として重んぜられた
南シナの産なる茶の木は、ごく早い時代からシナの植物学界および薬物学界に知られていた。古典には、梌、蔎、荈、檟、茗、というようないろいろな名前で書いてあって、疲労をいやし、精神をさわやかにし、意志を強くし、視力をととのえる効能があるために大いに重んぜられた。ただに内服薬として服用せられたのみならず、しばしばリューマチの痛みを軽減するために、煉薬として外用薬にも用いられた。道教徒は、不死の霊薬の重要な成分たることを主張した。仏教徒は、彼らが長時間の黙想中に、睡魔予防剤として広くこれを服用した。
書き下し
南シナの産なる茶の木は、ごく早い時代からシナの植物学界および薬物学界に知られていた。古典には、梌、蔎、荈、檟、茗、というようないろいろな名前で書いてあって、疲労をいやし、精神をさわやかにし、意志を強くし、視力をととのえる効能があるために大いに重んぜられた。ただに内服薬として服用せられたのみならず、しばしばリューマチの痛みを軽減するために、煉薬として外用薬にも用いられた。道教徒は、不死の霊薬の重要な成分たることを主張した。仏教徒は、彼らが長時間の黙想中に、睡魔予防剤として広くこれを服用した。
現代語訳
南中国が産地である茶の木は、ごく早い時代から中国の植物学と薬学の世界に知られていました。古典にはさまざまな名前で書かれており、疲れを癒やし、精神をさわやかにし、意志を強くし、視力を整える効き目があるために大いに重んじられました。ただ飲み薬として用いられただけでなく、しばしばリウマチの痛みを和らげるために、練り薬として塗り薬にも使われました。道教徒は、不死の霊薬の重要な成分だと主張しました。仏教徒は、長時間の瞑想の間に眠気止めとして広く服用しました。
解説
茶の出発点が薬であったことが、具体的な効能で示されます。疲労、精神、意志、視力。そして外用薬にまでなっていた。ここで注目したいのは、道教徒と仏教徒の二つの用い方です。道教は不死の薬として、仏教は眠気止めとして。同じ葉が、永遠を求める側と目覚めていようとする側の双方に使われた。のちに茶道が道教と禅の両方を背景に持つことになる、その伏線がここにあります。
この章句が説くこと
茶薬効能道教仏教
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