茶の本 / 第一章 人情の碗・いつになったら西洋が東洋を了解するか
いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのでないとしても、蓮の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。
書き下し
いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人は、われわれに関して織り出された事実や想像の妙な話に、しばしば胆を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのでないとしても、蓮の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。
現代語訳
いつになったら西洋は東洋を理解するのでしょう。いや、理解しようと努めるのでしょう。私たちアジア人は、自分たちについて紡ぎ出された事実と想像の奇妙な話に、しばしば肝を冷やすことがあります。私たちは、ねずみや油虫を食べて生きているのでないとしても、蓮の香りを吸って生きていると思われている。これはつまらない狂信か、さもなければ見下げ果てた享楽です。インドの精神性は無知と言われ、中国の謹直は愚鈍と言われ、日本の愛国心は宿命論の結果だと嘲られていました。ひどいものになると、私たちは神経が鈍いので傷や痛みを感じにくいとまで言われていました。
解説
誤解の具体例が列挙されます。精神性は無知に、謹直は愚鈍に、愛国心は宿命論に読み替えられる。どれも、美点をそのまま欠点に翻訳する手つきです。最後の一つ、痛みを感じにくいという説は、非白人を人として扱わない議論に直結するもので、当時の人種論の実態を端的に伝えています。天心は怒りを書きつらねるのではなく、事例を淡々と並べる。感情ではなく列挙で示すのが、この章の批判の作法です。
この章句が説くこと
誤解偏見東洋西洋理解
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