武士道 / 第十五章 武士道の感化・アダム耕しイヴ紡ぐの日
是れ盖し其の士族たり、ゼントルメンたるものの功に歸するに非らずや。宜なる哉、佛國テーヌ氏が、『海峽の彼岸に用ひらるゝが如き意義を含めるゼルトルメンの三綴語は、即ち英國社會の歷史を總括するものなり』と謂へることや。然るに平民主義は〓然として此說を駁し、敢て反問して日はん、『アダム耕し、イヴ紡ぐの日、何の處にかゼントルマン在りしや』と。吁嗟、エデンの園に紳士の在らざりしこそ、いと哀しけれ。人類の始祖は、いたく紳社會士の無きに苦しんで、此れが爲に高き價を拂ひたり。紳士若し在りたらん乎、樂園は更に多大の風趣を備へ、始祖は辛辣なる經驗を舐むること無くして、エホバに背くは不忠破廉恥なり、反逆暴戾なることを學びたりけん。
新字:是れ盖し其の士族たり、ゼントルメンたるものの功に帰するに非らずや。宜なる哉、仏国テーヌ氏が、『海峡の彼岸に用ひらるゝが如き意義を含めるゼルトルメンの三綴語は、即ち英国社会の歴史を総括するものなり』と謂へることや。然るに平民主義は〓然として此説を駁し、敢て反問して日はん、『アダム耕し、イヴ紡ぐの日、何の処にかゼントルマン在りしや』と。吁嗟、エデンの園に紳士の在らざりしこそ、いと哀しけれ。人類の始祖は、いたく紳社会士の無きに苦しんで、此れが為に高き価を払ひたり。紳士若し在りたらん乎、楽園は更に多大の風趣を備へ、始祖は辛辣なる経験を舐むること無くして、エホバに背くは不忠破廉恥なり、反逆暴戻なることを学びたりけん。
書き下し
是れ蓋し其の士族たり、ゼントルメンたるものの功に帰するに非らずや。宜なる哉、仏国テーヌ氏が、『海峡の彼岸に用ひらるるが如き意義を含めるゼントルメンの三綴語は、即ち英国社会の歴史を総括するものなり』と謂へることや。然るに平民主義は(憤)然として此説を駁し、敢て反問して曰はん、『アダム耕し、イヴ紡ぐの日、何の処にかゼントルマン在りしや』と。吁嗟、エデンの園に紳士の在らざりしこそ、いと哀しけれ。人類の始祖は、いたく紳士〔社会:頭注の混入〕の無きに苦しんで、此れが為に高き価を払ひたり。紳士若し在りたらん乎、楽園は更に多大の風趣を備へ、始祖は辛辣なる経験を舐むること無くして、エホバに背くは不忠破廉恥なり、反逆暴戻なることを学びたりけん。
現代語訳
これは思うに、その士族であり紳士(ジェントルマン)である人々の功績に帰すべきものではないか。もっともなことである、フランスのテーヌ(イポリット・テーヌ)氏が「海峡の向こう岸(英国)で用いられているような意味を含んだジェントルマンという三音節の語は、すなわち英国社会の歴史を要約するものである」と言ったのは。ところが平民主義は憤然としてこの説に反論し、あえて問い返して言うだろう。「アダムが耕し、イヴが糸を紡いでいたとき、どこに紳士がいたのか」と。ああ、エデンの園に紳士がいなかったことこそ、実に悲しいことである。人類の始祖は、紳士がいないことにひどく苦しみ、そのために高い代償を払った。もし紳士がいたならば、楽園はさらに大きな趣を備え、始祖は苦い経験をなめることなく、エホバ(神)に背くことは不忠であり恥知らずであり、反逆であり乱暴であることを学んだであろう。
解説
この章句が説くこと
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