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武士道 / 第十一章 克己・心念の平衡を持す

されど此點に關し、何等の說明を試むるものあらんにも、若し日本民族の古來繼承せる克己自制の修練を考察するにあらずんば、其れ必ずや正鵠を失するものあらん。克己の修養は、動もすれば其弊に墜ち易くして靈魂裡に於ける溫然たる暗流を遮ぎることあり、柔順なる天性を撓めて、邪癖偏傾ならしむることあり。克己は執拗を生み、僞善を培ひ、愛情を鈍らすことあり。夫れ何等の高尙なる道德なりとも、必ずや之に對して假僞の生ずることあり。されば吾人は何等の德に於ても其の眞美を認め、これが眞の理想を追求せざるべからず。而して自制克己の理想とする所は、即ち所謂、心念の平衡を持するに在り。希臘語を借りて之を云へば、即ちデモクリタスが至善を稱したる『ユウシミア』の狀態を得るに在り。克己の極致は切腹の之を明かにするあり。されば予は是より切腹と敵討との二制度に就いて觀察する所あらん〓

新字:されど此点に関し、何等の説明を試むるものあらんにも、若し日本民族の古来継承せる克己自制の修練を考察するにあらずんば、其れ必ずや正鵠を失するものあらん。克己の修養は、動もすれば其弊に墜ち易くして霊魂裡に於ける温然たる暗流を遮ぎることあり、柔順なる天性を撓めて、邪癖偏傾ならしむることあり。克己は執拗を生み、偽善を培ひ、愛情を鈍らすことあり。夫れ何等の高尚なる道徳なりとも、必ずや之に対して仮偽の生ずることあり。されば吾人は何等の徳に於ても其の真美を認め、これが真の理想を追求せざるべからず。而して自制克己の理想とする所は、即ち所謂、心念の平衡を持するに在り。希臘語を借りて之を云へば、即ちデモクリタスが至善を称したる『ユウシミア』の状態を得るに在り。克己の極致は切腹の之を明かにするあり。されば予は是より切腹と敵討との二制度に就いて観察する所あらん〓

書き下し

されど此点に関し、何等の説明を試むるものあらんにも、若し日本民族の古来継承せる克己自制の修練を考察するにあらずんば、其れ必ずや正鵠を失するものあらん。克己の修養は、ややもすれば其弊に墜ち易くして、霊魂裡に於ける温然たる暗流を遮ぎることあり、柔順なる天性を撓めて、邪癖偏傾ならしむることあり。克己は執拗を生み、偽善を培ひ、愛情を鈍らすことあり。夫れ何等の高尚なる道徳なりとも、必ずや之に対して仮偽の生ずることあり。されば吾人は何等の徳に於ても其の真美を認め、これが真の理想を追求せざるべからず。而して自制克己の理想とする所は、即ち所謂、心念の平衡を持するに在り。希臘語を借りて之を云へば、即ちデモクリトスが至善を称したる『ユウシミア』の状態を得るに在り。克己の極致は切腹の之を明かにするあり。されば予は是より切腹と敵討との二制度に就いて観察する所あらん。

現代語訳

しかし、この点についてどのような説明を試みる者があっても、もし日本民族が昔から受け継いできた克己と自制の修練を考えに入れなければ、必ずや的を外すことになるだろう。克己の修養は、ともすればその弊害に陥りやすく、魂の中を流れる温かな暗流をさえぎることがあり、素直な天性をねじ曲げて、ひねくれた偏りを生むことがある。克己は頑固さを生み、偽善を育て、愛情を鈍らせることがある。どれほど高尚な道徳であっても、必ずそれに対する偽物が生まれるものである。だからわれわれは、どの徳についてもその本当の美しさを認め、その真の理想を追い求めなければならない。そして自制と克己が理想とするところは、いわゆる心の平衡を保つことにある。ギリシア語を借りて言えば、デモクリトス(古代ギリシアの哲学者)が最高の善と呼んだ「エウテュミア」(心の晴朗)の状態を得ることにある。克己の極致は、切腹がそれを明らかにしている。そこで私はこれから、切腹と敵討の二つの制度について考察しよう。

解説

克己の章の結びで、新渡戸はその弊害を正面から述べます。感情を抑える修養は、魂の温かな流れをさえぎり、素直な性質をゆがめ、頑固さや偽善を生み、愛情を鈍らせることがあるというのです。どんな高い徳にも偽物が生まれるのだから、その真の理想を見きわめよ、と新渡戸は言い、克己の理想を心の平衡に置きます。デモクリトスが最高の善とした心の晴朗を借りて説明するのは、ここでも西洋の読者に通じる言葉を選んでいるからです。そして克己の極致として、次章の切腹と敵討へ話を進めます。感情を殺すことと感情に振り回されないことは違う、という区別が要になっています。あなたの我慢は、心を穏やかにしていますか、それとも頑なにしていますか。

この章句が説くこと

克己自制平衡偽善切腹

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