武士道 / 第八章 名譽・三傑を評する郭公の句
と示し、而して家康は誠に能く、眷々此訓言を服膺せるの人なり。さる連歌師の作とて世に傳へたる、信長、秀吉、家康の三傑を評するの句あり。鳴かざれば殺してしまふ郭公。(秀吉)鳴かざれば鳴かせて見よう郭公。(家康)鳴かざれば鳴くまでまたう郭公。孟子は大いに人に勸むるに忍耐不屈を以てし或は『雖祖.楊裸――程於我側、爾焉能挽我哉』といひ、或は又た小憤は君子の愧づる所にして、大憤即ち義憤なるを說きたり。武士道を奉ずる者の、其奧を極めて遂に能く『爭而不校』と謂へる柔和の高致に達したるものあり。小河立所曰く.『人の誣ふるに逆はず、己が信ならざるを思へ』と。熊澤蕃山は曰へらく、『人は咎むとも答めじ、人は怒るとも怒らじ、怒と慾とを棄てゝこそ、常に心は樂しめ』と又た其隆起せる額は、清廉高義を表して、所謂『耻も此に宿るを愧づる』なる、彼の老西〓の格言を擧げて之を示さん。道は天地自然の道にして、人は之を行ふものなり。故に天を敬するを以て目的となす。天は人も我も同一に愛す。故に我を愛する心を以て、人を愛すべし。
新字:と示し、而して家康は誠に能く、眷々此訓言を服膺せるの人なり。さる連歌師の作とて世に伝へたる、信長、秀吉、家康の三傑を評するの句あり。鳴かざれば殺してしまふ郭公。(秀吉)鳴かざれば鳴かせて見よう郭公。(家康)鳴かざれば鳴くまでまたう郭公。孟子は大いに人に勧むるに忍耐不屈を以てし或は『雖祖.楊裸――程於我側、爾焉能挽我哉』といひ、或は又た小憤は君子の愧づる所にして、大憤即ち義憤なるを説きたり。武士道を奉ずる者の、其奥を極めて遂に能く『争而不校』と謂へる柔和の高致に達したるものあり。小河立所曰く.『人の誣ふるに逆はず、己が信ならざるを思へ』と。熊沢蕃山は曰へらく、『人は咎むとも答めじ、人は怒るとも怒らじ、怒と慾とを棄てゝこそ、常に心は楽しめ』と又た其隆起せる額は、清廉高義を表して、所謂『耻も此に宿るを愧づる』なる、彼の老西〓の格言を挙げて之を示さん。道は天地自然の道にして、人は之を行ふものなり。故に天を敬するを以て目的となす。天は人も我も同一に愛す。故に我を愛する心を以て、人を愛すべし。
書き下し
と示し、而して家康は誠に能く、眷々此訓言を服膺せるの人なり。さる連歌師の作とて世に伝へたる、信長、秀吉、家康の三傑を評するの句あり。鳴かざれば殺してしまふ郭公。(秀吉)鳴かざれば鳴かせて見よう郭公。(家康)鳴かざれば鳴くまで待たう郭公。孟子は大いに人に勧むるに忍耐不屈を以てし、或は『雖袒裼裸裎於我側、爾焉能浼我哉』といひ、或は又た小憤は君子の愧づる所にして、大憤即ち義憤なるを説きたり。武士道を奉ずる者の、其奥を極めて遂に能く『争而不校』と謂へる柔和の高致に達したるものあり。小河立所曰く、『人の誣ふるに逆はず、己が信ならざるを思へ』と。熊沢蕃山は曰へらく、『人は咎むとも咎めじ、人は怒るとも怒らじ、怒と慾とを棄ててこそ、常に心は楽しめ』と。又た其隆起せる額は、清廉高義を表して、所謂『恥も此に宿るを愧づる』なる、彼の老西(郷)の格言を挙げて之を示さん。道は天地自然の道にして、人は之を行ふものなり。故に天を敬するを以て目的となす。天は人も我も同一に愛す。故に我を愛する心を以て、人を愛すべし。
現代語訳
と教えた。そして家康はまことに、この教訓を心に深く刻んで守った人であった。ある連歌師の作として世に伝えられた、信長・秀吉・家康の三人の英傑を評した句がある。「鳴かないなら殺してしまえ、ホトトギス」(信長)、「鳴かないなら鳴かせてみよう、ホトトギス」(秀吉)、「鳴かないなら鳴くまで待とう、ホトトギス」(家康)。孟子は大いに人に忍耐と不屈を勧め、「たとえおまえが私のそばで肌脱ぎになり裸になっても、おまえがどうして私を汚すことができようか」と言い、また、小さな怒りは君子の恥じるところであり、大きな怒りこそが義憤であると説いた。武士道を奉じる者のなかには、その奥義を極めて、ついに「争われても言い返さない」という柔和の高い境地に達した者がいた。小河立所(おごう りっしょ、江戸前期の儒者)は言う、「人が自分を中傷しても逆らわず、自分の誠が足りないことを思え」と。熊沢蕃山(江戸前期の陽明学者)は言った、「人がとがめても自分はとがめず、人が怒っても自分は怒らない。怒りと欲を捨ててこそ、心はいつも楽しい」と。また、その盛り上がった額に清廉と高潔が表れていて、いわゆる「恥もそこに宿ることを恥じる」という、あの西(郷)翁の格言を挙げてこれを示そう。「道は天地自然の道であって、人はこれを行うものである。だから天を敬うことを目的とする。天は人も自分も同じように愛する。だから自分を愛する心で人を愛すべきである。
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第八章 名譽・ならぬ堪忍するが堪忍もし夫れ其弊習を見て、直ちに武士道を難ぜんとするあらば、此れ理を失するの甚しきものにして、あたかも宗教狂、妄信、即ち宗教裁判、偽善の類を捉へて、基督の真教を批判するが如し。されど宗教狂と雖、なほ之を酔漢の痴態に比すれば、其中おのづから高尚、人を動かすべきもの在りて存するが如く、武士が名誉を感ずるの念の過敏なるに於て、亦た其根底に、醇乎たる徳性の伏在せるを認むべきに非らずや。名誉の規準の慎密なるに過ぎて、往々不健全となるの傾なきにあらずと雖、亦た寛裕忍耐の教ありて、能く此弊を未然に拯ひしこと少からず。俚諺にも『ならぬ堪忍するが堪忍』と云ひ、又た偉大なる徳川家康が遺訓にも、『人の一生は重き荷を負ひて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず……堪忍は無事長久の基……己を責めて、人を責むるな』。
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