武士道 / 第八章 名譽・ならぬ堪忍するが堪忍
若し夫れ其弊習を見て、直ちに武士道を難ぜんとするあらば、此れ理を失するの甚しきものにして、恰も宗教狂、妄信、即ち宗教裁判僞善の類を捉へて、基督の眞教を批判するが如し。されど宗教狂と雖、猶ほ之を醉漢の痴態に比すれば、其中自から高尙人を動かすべきもの在りて存するが如く、武士が名譽を感ずるの念の過敏なるに於て、亦た其根底に、醇乎たる德性の伏在せるを認むべきに非らずや。名譽の規準の愼密なるに過ぎて、往々不健全となるの傾なきにあらずと雖、亦た寛裕忍耐の教ありて、能く此弊を未然に拯ひしこと少からず。俚諺にも、『ならぬ堪忍するが堪忍』と云ひ、又た偉大なる德川家康が遺訓にも、人の一生は重き荷を負ひて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず……堪忍は無事長久の基……己を責めで、人を責むるな。
新字:若し夫れ其弊習を見て、直ちに武士道を難ぜんとするあらば、此れ理を失するの甚しきものにして、恰も宗教狂、妄信、即ち宗教裁判偽善の類を捉へて、基督の真教を批判するが如し。されど宗教狂と雖、猶ほ之を酔漢の痴態に比すれば、其中自から高尚人を動かすべきもの在りて存するが如く、武士が名誉を感ずるの念の過敏なるに於て、亦た其根底に、醇乎たる徳性の伏在せるを認むべきに非らずや。名誉の規準の慎密なるに過ぎて、往々不健全となるの傾なきにあらずと雖、亦た寛裕忍耐の教ありて、能く此弊を未然に拯ひしこと少からず。俚諺にも、『ならぬ堪忍するが堪忍』と云ひ、又た偉大なる徳川家康が遺訓にも、人の一生は重き荷を負ひて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず……堪忍は無事長久の基……己を責めで、人を責むるな。
書き下し
もし夫れ其弊習を見て、直ちに武士道を難ぜんとするあらば、此れ理を失するの甚しきものにして、あたかも宗教狂、妄信、即ち宗教裁判、偽善の類を捉へて、基督の真教を批判するが如し。されど宗教狂と雖、なほ之を酔漢の痴態に比すれば、其中おのづから高尚、人を動かすべきもの在りて存するが如く、武士が名誉を感ずるの念の過敏なるに於て、亦た其根底に、醇乎たる徳性の伏在せるを認むべきに非らずや。名誉の規準の慎密なるに過ぎて、往々不健全となるの傾なきにあらずと雖、亦た寛裕忍耐の教ありて、能く此弊を未然に拯ひしこと少からず。俚諺にも『ならぬ堪忍するが堪忍』と云ひ、又た偉大なる徳川家康が遺訓にも、『人の一生は重き荷を負ひて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず……堪忍は無事長久の基……己を責めて、人を責むるな』。
現代語訳
もしその弊害だけを見てただちに武士道を非難しようとするなら、それは理を失うことの甚だしいもので、ちょうど宗教の狂信や妄信、すなわち宗教裁判や偽善の類を取り上げてキリストの真の教えを批判するようなものです。しかし宗教の狂信であっても、酔っ払いの醜態に比べれば、その中に自ずと高尚で人を動かすものがあるように、武士が名誉を感じる念が過敏であったことにも、その根底に純粋な徳性が潜んでいると認めるべきではないでしょうか。名誉の基準が慎重に過ぎて、しばしば不健全になる傾向がなかったわけではありませんが、一方で寛容と忍耐の教えがあって、この弊害を未然に救ったことも少なくありません。諺にも、我慢できないことを我慢するのが本当の我慢だ、と言い、また偉大な徳川家康の遺訓にも、人の一生は重い荷を負って遠い道を行くようなものだ、急いではならない、我慢は無事に長く続くことの基である、自分を責めて人を責めるな、とあります。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武士道』第八章 名譽・蚤を告げた町人を斬る名誉の名の下に、武士道の許さざる非行を犯すことあり。躁急火性の慢心者が、微細の汚辱を受くるにより、或は恥ならざるを恥となすによりて、赫怒一番、即ち刀を按じ、無益の争闘を醸し、因つて無辜を殺すことも尠からざりき。俗話に伝ふ、善意の町人が、侍の背に蚤の飛べるを告げたれば、蚤は畜生に湧く虫なり、尊貴の武士を畜生視するは無礼至極なりとの、簡単奇怪の理由を以て、たちまち彼を一刀に切り捨て、復た顧みざりしといふは、作話にも程こそあれ、あに笑ふべきの甚だしきにあらずや。但し此類の俗話の伝へらるる所以に、三つの原因あり。一は即ち此等が平民を畏怖せしめんが為に作意せられたるものなる事、二は即ち武士が其の名誉の分限を濫用したる事、三は即ち羞悪の念の、侍の間に在りて強大なる発育を成したる事、是れなり。
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『武士道』第八章 名譽・少年を教うるに先ず廉恥を名誉の念には、人の威厳価値に関する明白なる自覚の存するが故に、此念は彼の生れながらにして、己が門地に伴ふ義務と権限とを重んずることを知り、且又た此れが教養を受けたる武士の特質たらずんばあらず。『名誉』とは現時の通語にして、往時多くは同義を現すに、『名』『面目』『外聞』等の語を以てしたりき。此等の文字は各人をして、聖書の『ネーム』、希臘語の仮面なる字より出でたる『パーソナリティー』、又たは『フェーム』を想起せしむるものあり。令名は人の体面なり、我に備はれる不滅のものなり。此れ無くんば人は禽獣なり、此れを毀損するは恥辱なりとしたり。故に少年を教ふるに、先づ廉恥を養ふことを以てせり。
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『武士道』第八章 名譽・忠節は封建道徳の柱梁なり武士は名を重んじて、命を軽んず。故に一旦大事あるに臨んでは、従容として死に就く、帰するが如きものあり。而して武士の生命を見ること鴻毛の如く、之を犠牲として毫も辞せざりしは、殊に忠義の一途に於て之を見る。けだし忠節の義務は、即ち封建道徳の柱梁なり、其の整然たる穹門を成すの要石なりき。
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『武士道』第八章 名譽・恥を知るは諸徳の原たとひ微小なりとも、創を蒙らんことは我が願ふ所にあらず』と。白石の既に少年の日に当り、いやしくも節を屈し、恥を負ふの事を甘んじ、以て畢生の大創を蒙り、敢て其天分を壊り、品性を害することを肯ぜざりしもの、実に士たるの本懐を吐露して違はざりしものと謂ふべし。孟子が『羞悪の心は義の端なり』と教へてより後、二千年にして、カーライルは殆ど同義の弁をなして曰へり。『恥を知るは、諸徳の原、良容善行の根なり』と。武士は恥を恐るること甚だしきものありき。我国文学は、シェイクスピアがノーフォークの口に上ぼせたるが如き雄弁なる詞句を有せざれど、なお恥を恐るるの念は、武士の頭上に懸れるダモクレスの剣なりき。然り、恥を恐るるは大に可なり。されど其の過ぐるや、往々病的なる性質を帯ぶることなきにあらず。
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・日本人の欠点もまた武士道に存す典雅流麗の文字、能く日本人の心機を解明したる小泉八雲を読まんか、さらば直ちに、其心機の作動は即ち武士道の作動の一例なるを見ん。我国上下を通じて礼節を重んずることも、亦たこれ武士道の遺産にして、世界の熟知する所、更に絮説を要せず。所謂『矮小漢』の不撓の体力を具し、又た堅忍勇敢なるは、日露戦役の能く証明したる所なり。人多く問ふ、『斯民にも勝りて忠君愛国の念を有するの国家ありや』と。而して吾人は傲然として、『他また是れ有ること無し』と答ふるを得るは、深く武士道の教訓に負ふものあるを感謝せずんばあらず。之に反し、日本人の性格に於ける彼の欠点短所は、其の責又た大いに武士道に存すとするは、すこぶる其当を得たり。
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『武士道』第十二章 切腹及び敵討・憂き事のなおこの上に積れかしされど真の武士は、死を急ぎ、死に阿るを以て、共に怯懦なりとしたり。武士の亀鑑として世に伝へらるる勇士は、数度の戦場に臨んでかつて利あらず、山野に逐はれ、森林に遁れ、洞穴に潜み、果ては陰暗なる空木の窩に、一人餓に苦しみ、刀鈍り、弓折れ、矢尽きぬ。羅馬人の中にて最も高邁なる丈夫も、かかる時、フィリッピの野に己が刃に伏したるに非らずや。されど此勇士は死を怯なりと賤め、基督教殉道者にも似たる大勇を奮ひて、口ずさむらく、『憂き事のなほこの上に積れかし、限りある身の力ためさん』。武士道の教ふる所は実に是にあり。曰く、堅忍正念、能く百難千苦に抗すべしと。孟子説いて曰はずや、『天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚を餓ゑしめ、其の身を空乏にし、行ひ其の為す所に払乱せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益する所以なり』と。