武士道 / 第十七章 武士道の將來・譬えば桜花の如し
或は武士道に髣髴たるもの無きに非らざる、ニーチエの專權自彊なる主人道德は、若し予にして大過なくんば、即ち彼が又た病的曲解を以て、ナザレ人耶蘇の謙遜克己の奴隷道德と名くるものに抗する一時の反動なり。過渡の現象なり。基督教と唯物說(功利說をも含む)-將來或は更に簡約せられて希伯來主義と希臘主義との舊態に復すること無き乎――は天下を二分せん。小系統の道德は亦た彼に就き、此に合して、其命脈を保つべし。而して武士道は其の孰れにか與すべき。斯道たる、墨守すべき教理無く、形式無く、其實體は消失するに任せん。譬へば櫻花の如し、一陣の春風、萬朶の雪となりて翩飜たるを厭はず。されど、其命數は必ずや、滅絕すべきものにあらず。
新字:或は武士道に髣髴たるもの無きに非らざる、ニーチエの専権自彊なる主人道徳は、若し予にして大過なくんば、即ち彼が又た病的曲解を以て、ナザレ人耶蘇の謙遜克己の奴隷道徳と名くるものに抗する一時の反動なり。過渡の現象なり。基督教と唯物説(功利説をも含む)-将来或は更に簡約せられて希伯来主義と希臘主義との旧態に復すること無き乎――は天下を二分せん。小系統の道徳は亦た彼に就き、此に合して、其命脈を保つべし。而して武士道は其の孰れにか与すべき。斯道たる、墨守すべき教理無く、形式無く、其実体は消失するに任せん。譬へば桜花の如し、一陣の春風、万朶の雪となりて翩翻たるを厭はず。されど、其命数は必ずや、滅絶すべきものにあらず。
書き下し
或は武士道に髣髴たるもの無きに非らざる、ニーチェの専権自彊なる主人道徳は、もし予にして大過なくんば、即ち彼が又た病的曲解を以て、ナザレ人イエスの謙遜克己の奴隷道徳と名くるものに抗する一時の反動なり、過渡の現象なり。基督教と唯物説、功利説をも含む、将来或は更に簡約せられて希伯来主義と希臘主義との旧態に復すること無きか、は天下を二分せん。小系統の道徳は亦た彼に就き、此に合して其命脈を保つべし。而して武士道は其のいづれにか与すべき。斯道たる、墨守すべき教理無く、形式無く、其実体は消失するに任せん。譬へば桜花の如し、一陣の春風、万朶の雪となりて翩飜たるを厭はず。されど、其命数は必ずや滅絶すべきものにあらず。
現代語訳
あるいは武士道に似たところがなくもない、ニーチェの権力を専らにし自ら強くあろうとする主人の道徳は、もし私に大きな過ちがなければ、彼がまた病的な曲解によって、ナザレのイエスの謙遜と克己の奴隷道徳と名づけたものに対抗する一時の反動であり、過渡の現象です。キリスト教と唯物説、功利説を含みますが、将来あるいはさらに簡約されてヘブライ主義とギリシャ主義の昔の姿に戻ることはないでしょうか、この二つが天下を二分するでしょう。小さな体系の道徳もまたあちらに就き、こちらに合して、その命脈を保つでしょう。そして武士道はどちらに与すべきでしょうか。この道には固く守るべき教理がなく、形式もなく、その実体は消えるに任せるでしょう。たとえば桜の花のように、一陣の春風で万の枝が雪となって舞うのを厭いません。されどその命数は、必ずしも滅び絶えるものではありません。
解説

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