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武士道 / 第十七章 武士道の將來・武士道は煙れる葦の如し

然るに悲しい哉、今や其果の未だ豐熟するに及ばずして、其日將に盡きんとす。而して吾人は左眄右顧、勿忙として、更に又た佳美、光輝、勢力、慰安を與ふべき他の源泉に馳すとも、未だ武士道に代ふべきものあるを認めず。功利說、唯物說の損益哲學は、靈魂の半ば喪ロジツク、チ失せる理窟捏造屋の稱好するものなり。而して功利說、唯物說と角逐するに足るもの唯だ一基督教のあるあり。之に比すれば、武士道は、救世主の消すこと無く、煽りて焰となさんと宣言せる『煙れる葦』の如し。基督の先驅たる希伯來の豫言者、就中イザヤ・エレミヤ・アモス又たハバククと等しく、武士道は、特に治者、公人及び國民の道德行爲を重視す。然るに基督の倫理は、殆んど全く個人と其信奉者とに係りて、個人主義が道義の因子たるの資格よりして、其勢力に發達すると共に、愈よ其實効に於て增益する所あらん。

新字:然るに悲しい哉、今や其果の未だ豊熟するに及ばずして、其日将に尽きんとす。而して吾人は左眄右顧、勿忙として、更に又た佳美、光輝、勢力、慰安を与ふべき他の源泉に馳すとも、未だ武士道に代ふべきものあるを認めず。功利説、唯物説の損益哲学は、霊魂の半ば喪ロジツク、チ失せる理窟捏造屋の称好するものなり。而して功利説、唯物説と角逐するに足るもの唯だ一基督教のあるあり。之に比すれば、武士道は、救世主の消すこと無く、煽りて焰となさんと宣言せる『煙れる葦』の如し。基督の先駆たる希伯来の予言者、就中イザヤ・エレミヤ・アモス又たハバククと等しく、武士道は、特に治者、公人及び国民の道徳行為を重視す。然るに基督の倫理は、殆んど全く個人と其信奉者とに係りて、個人主義が道義の因子たるの資格よりして、其勢力に発達すると共に、愈よ其実効に於て增益する所あらん。

書き下し

然るに悲しいかな、今や其果の未だ豊熟するに及ばずして、其日まさに尽きんとす。而して吾人は左眄右顧、匆忙として、更に又た佳美、光輝、勢力、慰安を与ふべき他の源泉に馳すとも、未だ武士道に代ふべきものあるを認めず。功利説、唯物説の損益哲学は、霊魂の半ば喪失せる理窟捏造屋の称好するものなり。而して功利説、唯物説と角逐するに足るもの、ただ一つ基督教のあるあり。之に比すれば、武士道は救世主の、消すこと無く煽りて焰となさんと宣言せる『煙れる葦』の如し。基督の先駆たる希伯来の予言者、就中イザヤ・エレミヤ・アモス又たハバククと等しく、武士道は特に治者、公人及び国民の道徳行為を重視す。然るに基督の倫理は殆んど全く個人と其信奉者とに係りて、個人主義が道義の因子たるの資格よりして其勢力に発達すると共に、いよいよ其実効に於て増益する所あらん。

現代語訳

しかし悲しいことに、今やその実がまだ豊かに熟さないうちに、その日が尽きようとしています。そして私たちは左右を見回し、慌ただしく、さらに美しさや輝きや力や慰めを与える別の源泉へ走っても、まだ武士道に代わるものがあるとは認められません。功利説や唯物説の損得の哲学は、魂を半ば失った理屈をこしらえる者が好むものです。そして功利説や唯物説と競り合うに足るものは、ただ一つキリスト教があるだけです。これに比べれば、武士道は救い主が、消さずに煽って炎にしようと宣言した、煙る葦のようなものです。キリストの先駆けであるヘブライの預言者、とりわけイザヤ、エレミヤ、アモス、ハバククと同じく、武士道はとくに統治者や公人や国民の道徳的な行為を重視します。しかしキリストの倫理はほとんどまったく個人とその信奉者に関わるもので、個人主義が道義の要素としての資格から力を増すとともに、ますますその実効において益するところがあるでしょう。

解説

武士道の位置づけが最後に定まります。煙る葦。イザヤ書にある、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さないという句を踏まえた比喩です。消えかけているが、消されずに炎にされるかもしれないもの。そして武士道が公の道徳を重視し、キリスト教が個人に関わるという対比が置かれます。役割が違うから、片方が片方を継げるという見立てです。

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