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武士道 / 第十六章 武士道の命脈・彼は武士道最後の零片なり

貧窮は唯だ彼を驅迫するの一刺戟たるべく其の富貴利達を見るや、以て品格の桎梏となす。彼は忠義の念、愛國の情の實庫なり。彼は國家名譽の衞護たるを自任す。其德質、其缺點を擧げて、彼は武士道最後の零片なり。武士道の効驗は、其根帶迪かに遠く、又た强大なりと雖、既に云へるが如く、其感化は無意識にして、且つ冥々默々の間に存す。國民の心情は、一旦其遺傳せる感念に訴へらるることあらんか自から其理を知ること無くして直ちに之に應和す。故に同一の道德思想と雖、之を表すに新譯語を以てすると、古來武士道の襲用せる言語を以てするとは、其効力に於て多大の徑庭あり。曾て一人の基督教徒あり、信仰の道より離れて、牧師の忠言も竟に其墮落を拯ふ能はざりしに、人あり彼に說いて、一旦其救主に誠實を盟ひて、而して之に背くは忠義の道に非ずと陳ぶるや、彼は飜然として忽ち其信仰に復歸したりと云ふ。

新字:貧窮は唯だ彼を駆迫するの一刺戟たるべく其の富貴利達を見るや、以て品格の桎梏となす。彼は忠義の念、愛国の情の実庫なり。彼は国家名誉の衛護たるを自任す。其徳質、其欠点を挙げて、彼は武士道最後の零片なり。武士道の効験は、其根帯迪かに遠く、又た强大なりと雖、既に云へるが如く、其感化は無意識にして、且つ冥々黙々の間に存す。国民の心情は、一旦其遺伝せる感念に訴へらるることあらんか自から其理を知ること無くして直ちに之に応和す。故に同一の道徳思想と雖、之を表すに新訳語を以てすると、古来武士道の襲用せる言語を以てするとは、其効力に於て多大の径庭あり。曽て一人の基督教徒あり、信仰の道より離れて、牧師の忠言も竟に其堕落を拯ふ能はざりしに、人あり彼に説いて、一旦其救主に誠実を盟ひて、而して之に背くは忠義の道に非ずと陳ぶるや、彼は翻然として忽ち其信仰に復帰したりと云ふ。

書き下し

貧窮はただ彼を駆迫するの一刺戟たるべく、其の富貴利達を見るや、以て品格の桎梏となす。彼は忠義の念、愛国の情の宝庫なり。彼は国家名誉の衛護たるを自任す。其徳質、其欠点を挙げて、彼は武士道最後の零片なり。武士道の効験は、其根帯はるかに遠く、又た強大なりと雖、既に云へるが如く、其感化は無意識にして、且つ冥々黙々の間に存す。国民の心情は、一旦其遺伝せる感念に訴へらるることあらんか、おのづから其理を知ること無くして直ちに之に応和す。故に同一の道徳思想と雖、之を表すに新訳語を以てすると、古来武士道の襲用せる言語を以てするとは、其効力に於て多大の径庭あり。かつて一人の基督教徒あり、信仰の道より離れて、牧師の忠言もついに其堕落を拯ふ能はざりしに、人あり彼に説いて、一旦其救主に誠実を盟ひて而して之に背くは忠義の道に非ずと陳ぶるや、彼は翻然としてたちまち其信仰に復帰したりと云ふ。

現代語訳

貧窮はただ彼を駆り立てる一つの刺激であり、富貴や出世を見れば品格の足かせとみなします。彼は忠義の念と愛国の情の宝庫です。彼は国家の名誉の守り手であることを自任します。その徳も欠点も含めて、彼は武士道の最後のかけらです。武士道の効き目は、その根がはるかに遠く、また強大ですが、すでに述べたように、その感化は無意識で、しかも静かに黙って存在します。国民の心情は、ひとたび受け継いだ感覚に訴えられると、自ずとその理屈を知らないままただちにそれに応じます。ですから同じ道徳思想であっても、それを新しい訳語で表すのと、古来武士道が使ってきた言葉で表すのとでは、効き目に大きな隔たりがあります。かつて一人のキリスト教徒が信仰の道から離れ、牧師の忠告もついにその堕落を救えませんでした。しかしある人が彼に説いて、ひとたび救い主に誠実を誓っておきながらそれに背くのは忠義の道ではない、と述べたところ、彼はたちまち翻って信仰に戻ったといいます。

解説

書生が武士道の最後のかけらだとされ、そこから重要な指摘が続きます。同じ内容でも、新しい訳語で言うのと、古い言葉で言うのとでは効き目が違う。そして実例が示されます。牧師の忠告では戻らなかった信者が、それは忠義に背くと言われて戻った。言葉の選び方が行動を変えるという観察で、伝えたいことを相手の持つ語彙で言うことの威力を示しています。

この章句が説くこと

書生言葉訳語効力忠義

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