武士道 / 第十六章 武士道の命脈・新時代を形成する勢力たるべし
氏の說たる之を形而下の制度文物に於て云ふものなりとすれば、多く正鵠を逸せずと雖、若し之を根本的の倫理觀念に適用せんとせば、多少の刪正を加へざるべからず。乃ち舊日本の創建者たり、又た其生產物たる武士道は、依然として過渡時代を指導するの主義に、して、又た新時代を形成するの勢力たるべきなり。王政復古の狂瀾、維新回天の怒濤を冐して、我が國船を指揮したる大政治家の流は、皆其德教の據るべきもの、唯だ武士道あるを知るの人なりき。近くは二三者あり、基督教宣教師の新日本建設に與りて、著大の貢獻を爲したることを徵證せんとす。予は固より、榮ある所に榮を歸せんことを欲す。されど爰に云ふが如き名譽は、之を取りて我が賢明なる宣教師に賦與するに苦しむものなり。
新字:氏の説たる之を形而下の制度文物に於て云ふものなりとすれば、多く正鵠を逸せずと雖、若し之を根本的の倫理観念に適用せんとせば、多少の刪正を加へざるべからず。乃ち旧日本の創建者たり、又た其生産物たる武士道は、依然として過渡時代を指導するの主義に、して、又た新時代を形成するの勢力たるべきなり。王政復古の狂瀾、維新回天の怒濤を冐して、我が国船を指揮したる大政治家の流は、皆其徳教の拠るべきもの、唯だ武士道あるを知るの人なりき。近くは二三者あり、基督教宣教師の新日本建設に与りて、著大の貢献を為したることを徴證せんとす。予は固より、栄ある所に栄を帰せんことを欲す。されど爰に云ふが如き名誉は、之を取りて我が賢明なる宣教師に賦与するに苦しむものなり。
書き下し
氏の説たる、之を形而下の制度文物に於て云ふものなりとすれば、多く正鵠を逸せずと雖、もし之を根本的の倫理観念に適用せんとせば、多少の刪正を加へざるべからず。乃ち旧日本の創建者たり、又た其生産物たる武士道は、依然として過渡時代を指導するの主義にして、又た新時代を形成するの勢力たるべきなり。王政復古の狂瀾、維新回天の怒濤を冒して、我が国船を指揮したる大政治家の流は、皆其徳教の拠るべきもの、ただ武士道あるを知るの人なりき。近くは二三の者あり、基督教宣教師の新日本建設に与りて著大の貢献を為したることを徴証せんとす。予は固より、栄ある所に栄を帰せんことを欲す。されどここに云ふが如き名誉は、之を取りて我が賢明なる宣教師に賦与するに苦しむものなり。
現代語訳
氏の説は、これを形のある制度や文物について言うのであれば大きくは的を外していませんが、もしこれを根本的な倫理の観念に当てはめようとすれば、多少の手直しが必要です。すなわち、古い日本を創った者であり、またその産物でもある武士道は、依然として過渡期を導く主義であり、また新しい時代を形作る力であるはずです。王政復古の荒波、維新の回天の怒涛を冒して、わが国の船を指揮した大政治家たちは、みな徳の教えの拠りどころとして武士道しかないことを知る人でした。近ごろ二、三の者があって、キリスト教の宣教師が新しい日本の建設に加わって大きな貢献をしたことを立証しようとしています。私はもとより、栄光のあるところに栄光を帰したいと思います。しかしここで言うような名誉を、わが賢明な宣教師に与えるのには苦しみます。
解説
この章句が説くこと
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