武士道 / 第十四章 婦人の教育と地位・ダビデとヨナタン
ピシアス乃ち刑に就かんとするの刹那、ダモン刑場に着し、自から死せんことを願ふ。流石のダイオニシアスも、此の二靑年の情誼の深厚なるに感激して、竟に彼等を赦免したりと傳ふ。註(五)ダビデとジヨナサンと(DavidchaJonathan)の友情は、舊約全書中の一美譚なり。牧羊童ダビデ既に巨人ゴライアスを斃して、サウル王の面前に來る。『ダビデ、サウルに語ることを終へし時、ジヨナサン(サウル王の子)の心、ダビデの心に結びつきて、ジヨナサン、己れの生命の如くダビデ、を愛せり』とあり。(撒母耳前書を見よ。)
新字:ピシアス乃ち刑に就かんとするの刹那、ダモン刑場に着し、自から死せんことを願ふ。流石のダイオニシアスも、此の二青年の情誼の深厚なるに感激して、竟に彼等を赦免したりと伝ふ。註(五)ダビデとジヨナサンと(DavidchaJonathan)の友情は、旧約全書中の一美譚なり。牧羊童ダビデ既に巨人ゴライアスを斃して、サウル王の面前に来る。『ダビデ、サウルに語ることを終へし時、ジヨナサン(サウル王の子)の心、ダビデの心に結びつきて、ジヨナサン、己れの生命の如くダビデ、を愛せり』とあり。(撒母耳前書を見よ。)
書き下し
ピシアス乃ち刑に就かんとするの刹那、ダモン刑場に着し、自から死せんことを願ふ。さすがのディオニュシオスも、此の二青年の情誼の深厚なるに感激して、ついに彼等を赦免したりと伝ふ。註、ダビデとヨナタンの友情は、旧約全書中の一美譚なり。牧羊童ダビデ既に巨人ゴリアテを斃して、サウル王の面前に来る。『ダビデ、サウルに語ることを終へし時、ヨナタン、すなはちサウル王の子の心、ダビデの心に結びつきて、ヨナタン、己れの生命の如くダビデを愛せり』とあり。サムエル前書を見よ。
現代語訳
ピシアスがまさに刑に就こうとする瞬間、ダモンが刑場に到着し、自分が死ぬことを願いました。さすがのディオニュシオスも、この二人の青年の情の深さに感激して、ついに彼らを赦免したと伝えられます。注。ダビデとヨナタンの友情は、旧約聖書の中の美しい話の一つです。羊飼いの少年ダビデが巨人ゴリアテを倒し、サウル王の前に来ました。ダビデがサウルに語り終えたとき、ヨナタン、すなわちサウル王の子の心がダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した、とあります。サムエル記上を参照してください。
解説
この章句が説くこと
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