武士道 / 第九章 忠節・忰は御役に立つたぞよ
今ぞ我子能く祖父の主君に仕へて其殊恩に報ずべしと、申合せての此の悲しさ。我子の死顏なりと、今一度見たさに又た歸り來る寺小屋。松王は今日の役目――膓を斷つべき一期の役目――仕遂せで又た立戾る源藏が門より、聲高く『女房よろこべ、忰は御役に立つたぞよ』。『嗚呼、何等の慘事ぞ、他の生命を救はんが爲に、親の自から其子を犠牲とする事や』と、人あり或は此言をなすものあらん。されど此小兒は自から甘んじて死に就くの犠性なりき。此れ人に代つて死するの物語なり。アプラハムの其子イサクを祭壇に捧げたると何の異なる所かあらん、其義は相似たり、其美は相若く。共に義務の招く所に應じ、高きより來る聲の命ずるがまゝに行へるものなり。
新字:今ぞ我子能く祖父の主君に仕へて其殊恩に報ずべしと、申合せての此の悲しさ。我子の死顏なりと、今一度見たさに又た帰り来る寺小屋。松王は今日の役目――膓を断つべき一期の役目――仕遂せで又た立戻る源蔵が門より、声高く『女房よろこべ、忰は御役に立つたぞよ』。『嗚呼、何等の惨事ぞ、他の生命を救はんが為に、親の自から其子を犠牲とする事や』と、人あり或は此言をなすものあらん。されど此小児は自から甘んじて死に就くの犠性なりき。此れ人に代つて死するの物語なり。アプラハムの其子イサクを祭壇に捧げたると何の異なる所かあらん、其義は相似たり、其美は相若く。共に義務の招く所に応じ、高きより来る声の命ずるがまゝに行へるものなり。
書き下し
今ぞ我子、能く祖父の主君に仕へて其殊恩に報ずべしと、申合せての此の悲しさ。我子の死顔なりと、今一度見たさに、又た帰り来る寺子屋。松王は今日の役目――膓を断つべき一期の役目――仕遂せで又た立戻る源蔵が門より、声高く『女房よろこべ、忰は御役に立つたぞよ』。『嗚呼、何等の惨事ぞ、他の生命を救はんが為に、親の自から其子を犠牲とする事や』と、人あり或は此言をなすものあらん。されど此小児は、自から甘んじて死に就くの犠牲なりき。此れ人に代つて死するの物語なり。アブラハムの其子イサクを祭壇に捧げたると何の異なる所かあらん。其義は相似たり、其美は相若し。共に義務の招く所に応じ、高きより来る声の命ずるがままに行へるものなり。
現代語訳
今こそ我が子が祖父の主君によく仕えてその特別な恩に報いるのだと、夫婦で申し合わせてのこの悲しさ。我が子の死に顔をもう一度見たくて、また帰ってくる寺子屋。松王は今日の役目、腸を断つほどの一生一度の役目を仕遂げて、また立ち戻る源蔵の門から声高く、女房よ喜べ、倅は御役に立ったぞ、と言います。ああ、何という惨事か、他人の命を救うために親が自ら我が子を犠牲にするとは、と言う人もあるでしょう。しかしこの子は自ら進んで死に就いた犠牲でした。これは人に代わって死ぬ物語です。アブラハムがその子イサクを祭壇に捧げたのと何の違いがありましょう。その義は似ており、その美も等しい。ともに義務の招くところに応じ、高いところから来る声の命じるままに行ったものです。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』大取指を斷つと腕を斷つと、天下を利すること相い若くんば、擇ぶこと無きなり。死と生と利、若ければ、一に擇ぶこと無し。一人を殺して以て天下を存するは、一人を殺して以て天下を利するに非ざるなり。已を殺して以て天下を存するは、是れ己を殺して以て天下を利するなり。事為の中に於いて輕重を權る、之を求と謂う。求は之を為すも非なり。害の中に小を取り、義を為さんことを求むるは、義を為すに非ざるなり。暴人の為に天の是を為すを語らんや。而して性、暴人の為にせば、天の非を為すを歌うなり。諸そ陳執、既に為す所有りて、我れ之を為さば、陳執の執る所の為す所は、吾が為す所に因るなり。若し陳執、未だ為す所有らずして、我れ之を陳執に為さば、陳執は吾が為す所に因るなり。暴人、我が為に、天の人を以てするを為すは、是を為すに非ざるなり。而して性、正す可からずして之を正す。
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呂氏春秋・季夏③是の月や、四監大夫をして百縣の秩芻を合わせ、以て犧牲を養わしむ。民をして咸其の力を出ださせること無からしめ、以て皇天上帝・名山大川・四方の神に供し、以て宗廟社稷の靈を祀り、民の為に福を祈る。
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孔子家語・郊問公曰わく:「其れ郊と言うは、何ぞや。」孔子曰わく:「丘を南に兆すは、陽位に就く所以なり。郊に於てす、故に之を郊と謂う。」曰わく:「其の牲器は何如。」孔子曰わく:「上帝の牛は角璽栗にして、必ず滌に在ること三月。后稷の牛は唯だ具うるのみ、天神と人鬼とに事うるを別つ所以なり。牲は骍を用う、赤を尚べばなり。犢を用うるは、誠を貴べばなり。地を掃いて祭るは其の質なり。器は陶匏を用う、天地の性に象る以てなり。萬物之に稱う可き者無し、故に其の自然の體に因るなり。」