武士道 / 第十二章 切腹及び敵討・泉岳寺墓前の香華
嫉の神を信じたる猶太教の如き又た復讐の女神ネメシスを有したる希臘神話の如きは、或は復讐を以て人間以上の偉力に委ぬるを得べし。されど武士道は常識に基きて、敵討の制度を設け、普通法の審判するを得ざる事件を出訴すべき、一種の道義的衡平裁判所となしたり。四十七義士の主君の死罪に處せらるゝや、彼は之を訴ふべき高級の法延を有せざりき。而して其家臣の義士は、即ち當時に存在せし唯一の高等法廷たる復讐に訴へて、主君の寃を雪ぎ、而して自から又た普通法によりて罪を獲たり。されど其名は泉岳寺墓前の香華と共に、永へに薰じ、歳を經て綠の色更はること無し。老子は『報怨以德』と說きたりと雖、孔子の聲は更に之よりも大なるものありて、『以直報怨』と教へたり。
新字:嫉の神を信じたる猶太教の如き又た復讐の女神ネメシスを有したる希臘神話の如きは、或は復讐を以て人間以上の偉力に委ぬるを得べし。されど武士道は常識に基きて、敵討の制度を設け、普通法の審判するを得ざる事件を出訴すべき、一種の道義的衡平裁判所となしたり。四十七義士の主君の死罪に処せらるゝや、彼は之を訴ふべき高級の法延を有せざりき。而して其家臣の義士は、即ち当時に存在せし唯一の高等法廷たる復讐に訴へて、主君の冤を雪ぎ、而して自から又た普通法によりて罪を獲たり。されど其名は泉岳寺墓前の香華と共に、永へに薫じ、歳を経て綠の色更はること無し。老子は『報怨以徳』と説きたりと雖、孔子の声は更に之よりも大なるものありて、『以直報怨』と教へたり。
書き下し
嫉の神を信じたる猶太教の如き、又た復讐の女神ネメシスを有したる希臘神話の如きは、或は復讐を以て人間以上の偉力に委ぬるを得べし。されど武士道は常識に基きて、敵討の制度を設け、普通法の審判するを得ざる事件を出訴すべき、一種の道義的衡平裁判所となしたり。四十七義士の主君の死罪に処せらるるや、彼は之を訴ふべき高級の法廷を有せざりき。而して其家臣の義士は、即ち当時に存在せし唯一の高等法廷たる復讐に訴へて、主君の冤を雪ぎ、而して自から又た普通法によりて罪を獲たり。されど其名は泉岳寺墓前の香華と共に、永へに薫じ、歳を経て緑の色変はること無し。老子は『怨に報ゆるに徳を以てす』と説きたりと雖、孔子の声は更に之よりも大なるものありて、『直きを以て怨に報ゆ』と教へたり。
現代語訳
妬む神を信じたユダヤ教や、復讐の女神ネメシスを持ったギリシャ神話のようなものなら、復讐を人間を超えた力に委ねることもできるでしょう。しかし武士道は常識に基づいて敵討の制度を設け、通常の法では裁けない事件を訴え出るべき一種の道義的な衡平裁判所としました。四十七士の主君が死罪に処せられたとき、彼にはそれを訴えるべき上級の法廷がありませんでした。そしてその家臣である義士たちは、当時存在した唯一の高等法廷である復讐に訴えて主君の無実を雪ぎ、そして自らもまた通常の法によって罪を得ました。しかしその名は泉岳寺の墓前の香と花とともに永く薫り、年を経ても緑の色は変わりません。老子は、怨みに報いるに徳をもってせよ、と説きましたが、孔子の声はさらに大きく、正直をもって怨みに報いよ、と教えました。
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第十二章 切腹及び敵討・父の仇を報ずるは最も美しき近く米国の一将校にして、ドレフュスの仇を報ぜんが為、エステルハージーに決闘を挑みたるものさへありしに非らずや。結婚の行はれざる蕃族の間に在りては、姦淫は罪を構成せず、ただ情夫の嫉妬のみ、よく女子を保護して危害を蒙ること無きを得しむるが如く、刑事法廷の設備無き時代に在りては、殺戮は罪を成さず、ただ被害者の縁戚が、戒心以て讐を復することの、能く社会の秩序を保持したるなりき。神話のオシリスはホーラスに問ふに『此世の最も美しきは何ぞ』と。答へて曰く、『父の仇を報ずる、是れなり』と。而して日本人は之に加ふるに、必ずや『君主の仇』の語を以てせんとするものなり。復讐は、之によりて自己が正義の念を満足せしむるものなり。
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