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武士道 / 第十二章 切腹及び敵討・顔は糸一筋だも戦かず

拙者今其の大罪を負ひて切腹致す。各方には檢視の御役目御苦勞に存候。又たもや一禮終つて、善三郞は上衣を帶元まで脫ぎ下げ、腰の邊を露はせり。仰向に倒るゝこと無からんやう、形の如く、靜に兩袖を膝下に敷き入れたり。凡そ優尙なる日本の士人は俯伏し仆れて死すべきものなりとせり。善三郞ジト思入ありて、前なる短刀を確かと取り上げ、嬉しげに、さも愛着するばかりに打眺めて、暫くは最期の觀念を凝らすよと見えしが、やがて左の腹を深く刺して、徐かに右に引廻し又た元に返して少しく切り上げたるは凄ましとも、痛ましかりける次第なり。されど善三郞が顔は、絲一筋だも戰かず、かくて短刀を引拔きつ頸を差し伸べたる時、苦痛の色の初めて其顏にほのめきたれど、少しも音聲に現はれず。

新字:拙者今其の大罪を負ひて切腹致す。各方には検視の御役目御苦労に存候。又たもや一礼終つて、善三郎は上衣を帯元まで脫ぎ下げ、腰の辺を露はせり。仰向に倒るゝこと無からんやう、形の如く、静に両袖を膝下に敷き入れたり。凡そ優尚なる日本の士人は俯伏し仆れて死すべきものなりとせり。善三郎ジト思入ありて、前なる短刀を確かと取り上げ、嬉しげに、さも愛着するばかりに打眺めて、暫くは最期の観念を凝らすよと見えしが、やがて左の腹を深く刺して、徐かに右に引廻し又た元に返して少しく切り上げたるは凄ましとも、痛ましかりける次第なり。されど善三郎が顔は、糸一筋だも戦かず、かくて短刀を引抜きつ頸を差し伸べたる時、苦痛の色の初めて其顏にほのめきたれど、少しも音声に現はれず。

書き下し

『拙者、今其の大罪を負ひて切腹致す。各方には検視の御役目、御苦労に存候』。またもや一礼終つて、善三郎は上衣を帯元まで脱ぎ下げ、腰の辺を露はせり。仰向に倒るること無からんやう、形の如く、静かに両袖を膝下に敷き入れたり。凡そ優尚なる日本の士人は、俯伏し仆れて死すべきものなりとせり。善三郎、じつと思入ありて、前なる短刀を確かと取り上げ、嬉しげに、さも愛着するばかりに打眺めて、しばらくは最期の観念を凝らすよと見えしが、やがて左の腹を深く刺して、徐かに右に引廻し、又た元に返して少しく切り上げたるは、凄ましとも痛ましかりける次第なり。されど善三郎が顔は、糸一筋だも戦かず、かくて短刀を引抜きつ、頸を差し伸べたる時、苦痛の色の初めて其顔にほのめきたれど、少しも音声に現はれず。

現代語訳

拙者は今その大罪を負って切腹いたします。方々には検視のお役目、ご苦労に存じます。またも一礼を終えて、善三郎は上衣を帯のあたりまで脱ぎ下げ、腰のあたりを露わにしました。仰向けに倒れることのないよう、作法どおり、静かに両袖を膝の下に敷き入れました。およそ高潔な日本の武士は、うつぶせに倒れて死ぬべきものだとしました。善三郎はじっと思いを込めて、前に置かれた短刀をしっかりと取り上げ、嬉しげに、いかにも愛着するかのように眺めて、しばらく最期の思いを凝らしているように見えましたが、やがて左の腹を深く刺し、ゆっくりと右へ引き回し、また元に返して少し切り上げたのは、凄まじくも痛ましいことでした。しかし善三郎の顔は糸一筋ほども震えず、こうして短刀を引き抜いて首を差し伸べたとき、苦痛の色が初めてその顔に浮かんだものの、少しも声には現れませんでした。

解説

実行の場面です。仰向けに倒れないよう袖を膝の下に敷く、という一点に、最後まで形を崩さない意志が表れています。短刀を嬉しげに眺める、という描写も外国人の観察ならではです。そして顔は糸一筋も震えず、苦痛が浮かんでも声には出さなかった。前章の克己が、ここで最も極端な形で実演されている。抑制の訓練が何のためだったかが、この場面に集約されます。

この章句が説くこと

切腹作法克己苦痛沈黙

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