武士道 / 第十二章 切腹及び敵討・腹部の語は勇気の義に用いらる
此の觀念を有せることは、啻に古人佛國人は、自國の大哲學者デカルトが、靈魂のみにあらず。は腦髓の松子腺に在りと唱へたるに拘らず、尙ほ依然として、解剖學上よりせば極めて漠然たれど、生理學上よりせば、意義判然たるヴアントル(Ventre)即ち腹部の文字を取りて、主として勇氣の義に於て使用す。又た此と等しく佛國語にては、アントライラ(entrailles腹部・愛情)を、愛情、憐愍の義に用ふ。而しで此の信仰は、單に迷信に基くものにあらず、却つて、心臟を以て感情の中樞なりとする普通の思想に較ぶるに、更に學理に合するものあり。日本人はロメオの如くに、未だ儈侶に問ふことを須ひずして、『我が臭骸の何の穢しき處にか、我名は宿れる』を熟知せり。
新字:此の観念を有せることは、啻に古人仏国人は、自国の大哲学者デカルトが、霊魂のみにあらず。は脳髄の松子腺に在りと唱へたるに拘らず、尚ほ依然として、解剖学上よりせば極めて漠然たれど、生理学上よりせば、意義判然たるヴアントル(Ventre)即ち腹部の文字を取りて、主として勇気の義に於て使用す。又た此と等しく仏国語にては、アントライラ(entrailles腹部・愛情)を、愛情、憐愍の義に用ふ。而しで此の信仰は、単に迷信に基くものにあらず、却つて、心臓を以て感情の中枢なりとする普通の思想に較ぶるに、更に学理に合するものあり。日本人はロメオの如くに、未だ儈侶に問ふことを須ひずして、『我が臭骸の何の穢しき処にか、我名は宿れる』を熟知せり。
書き下し
此の観念を有せることは、ただに古人のみにあらず。仏国人は、自国の大哲学者デカルトが、霊魂は脳髄の松果腺に在りと唱へたるに拘らず、なお依然として、解剖学上よりせば極めて漠然たれど、生理学上よりせば意義判然たる『ヴァントル』即ち腹部の文字を取りて、主として勇気の義に於て使用す。又た此と等しく、仏国語にては『アントライユ』、すなはち腹部・愛情を、愛情、憐愍の義に用ふ。而して此の信仰は、単に迷信に基くものにあらず、却つて心臓を以て感情の中枢なりとする普通の思想に較ぶるに、更に学理に合するものあり。日本人はロミオの如くに、未だ僧侶に問ふことを須ひずして、『我が臭骸の何の穢しき処にか、我名は宿れる』を熟知せり。
現代語訳
この考えを持っていたのは古人だけではありません。フランス人は、自国の大哲学者デカルトが霊魂は脳の松果腺にあると唱えたにもかかわらず、なお依然として、解剖学上はきわめて漠然としていますが生理学上は意味のはっきりしたヴァントル、すなわち腹という語を取って、主に勇気の意味で使っています。また同じくフランス語ではアントライユ、すなわち腹であり愛情である語を、愛情や憐れみの意味で用います。そしてこの信仰は単に迷信に基づくものではなく、むしろ心臓を感情の中枢とする普通の考えに比べれば、より学理にかなうところがあります。日本人はロミオのように、僧侶に問うまでもなく、自分のこの臭い骸のどの汚れた場所に自分の名が宿っているのかを、よく知っていたのです。
解説
この章句が説くこと
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