師導古典を学びたいすべての人に

武士道 / 第十二章 切腹及び敵討・霊魂は腹に宿る

切腹は、之に伴ふ聯想のあるに由りてのみ、吾人の心に一點の不合理、醜陋の感を與へざるものに非らず。抑も殊に身體の此局部を選んで、之を切るは、即ち此れを以て靈魂及び愛情の宿る所となせる、古への解剖學的信仰に基くものなり。モーセが、『ヨセフの腹は、兄弟の爲にいたむ』と記し、ダビテが其腹(仁慈)を忘るゝ勿からんことをエホバに祈りたる、又たイザヤ・エレミヤ其他舊約時代の靈覺者が、『腹の響(切なるいつくしみ)』と云ひ、『我腹のなやみ』と云へるは、皆靈魂の腹に宿るとしたる日本人の信仰を是認するものなり。『腹』なる語は、希臘語の『フレン」(phren)若くは『ツーモス』(thumos)よりも意義更に深長にして、而して日本人も希臘人も共に、人の精神は、身體の此部分に存するものなりと思料したりしなり。

新字:切腹は、之に伴ふ聯想のあるに由りてのみ、吾人の心に一点の不合理、醜陋の感を与へざるものに非らず。抑も殊に身体の此局部を選んで、之を切るは、即ち此れを以て霊魂及び愛情の宿る所となせる、古への解剖学的信仰に基くものなり。モーセが、『ヨセフの腹は、兄弟の為にいたむ』と記し、ダビテが其腹(仁慈)を忘るゝ勿からんことをエホバに祈りたる、又たイザヤ・エレミヤ其他旧約時代の霊覚者が、『腹の響(切なるいつくしみ)』と云ひ、『我腹のなやみ』と云へるは、皆霊魂の腹に宿るとしたる日本人の信仰を是認するものなり。『腹』なる語は、希臘語の『フレン」(phren)若くは『ツーモス』(thumos)よりも意義更に深長にして、而して日本人も希臘人も共に、人の精神は、身体の此部分に存するものなりと思料したりしなり。

書き下し

切腹は、之に伴ふ聯想のあるに由りてのみ、吾人の心に一点の不合理、醜陋の感を与へざるものに非らず。そもそも殊に身体の此局部を選んで之を切るは、即ち此れを以て霊魂及び愛情の宿る所となせる、古への解剖学的信仰に基くものなり。モーセが『ヨセフの腹は、兄弟の為にいたむ』と記し、ダビデが其腹、すなはち仁慈を忘るること勿からんことをエホバに祈りたる、又たイザヤ・エレミヤ其他旧約時代の霊覚者が、『腹の響、すなはち切なるいつくしみ』と云ひ、『我腹のなやみ』と云へるは、皆、霊魂の腹に宿るとしたる日本人の信仰を是認するものなり。『腹』なる語は、希臘語の『フレン』もしくは『テューモス』よりも意義更に深長にして、而して日本人も希臘人も共に、人の精神は身体の此部分に存するものなりと思料したりしなり。

現代語訳

切腹は、それに伴う連想があるからというだけで、私たちの心に一点の不合理さや醜さも与えないというのではありません。そもそもとくに身体のこの部分を選んで切るのは、そこを霊魂と愛情の宿る場所とした古い解剖学的な信仰に基づいています。モーセが、ヨセフの腹は兄弟のために痛む、と記し、ダビデがその腹、すなわち慈しみを忘れないようにと主に祈ったこと、またイザヤやエレミヤその他旧約時代の霊的な人々が、腹の響き、すなわち切ない慈しみ、と言い、我が腹の悩み、と言ったのは、みな霊魂が腹に宿るとした日本人の信仰を是認するものです。腹という語は、ギリシャ語のフレンやテューモスよりも意味がさらに深く、日本人もギリシャ人もともに、人の精神は身体のこの部分にあると考えたのです。

解説

なぜ腹を切るのかという問いに、古い身体観から答えます。腹に霊魂が宿るという信仰は日本だけのものではなく、旧約聖書にもギリシャ語にもある。腹が痛む、はらわたが煮える、といった表現は今も生きています。自国の習俗を、相手の聖典と古典語で裏づける手つきが徹底しています。理解できないものを、相手の中にある同じものを指して説明する方法です。

この章句が説くこと

霊魂身体観比較聖書

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる