武士道 / 第十二章 切腹及び敵討・腹を切るは何ぞ其の不合理なる
切腹及び敵討の二制度に就いては、幾多海外文士の之を說いて、やゝ詳なるものあり。切腹又た割腹即ち世俗にはらきりと云ふは、其字の示すが如く、腹部を切りて自殺することなり。初めて此語を聞く者の或は叫びて云はん、『腹を切るは、何ぞ其の不合理なる』と。然り、外人の耳朶には、必ず先づ奇怪不合理の感を與ふべしと雖、凡そ沙翁を讀みたるものならんには、之に由りて甚だしく奇異の感を起さざるべし。彼はブルタスの口に上ぼせて、『汝シーザーの魂魄現はれ、我が劍を逆にして、正しく我腹を刺さしむ』と云へるに非らずや。又た近時の英國詩宗が、『亞細亞の光』に於て、劍を以て女皇の腹を貫くを詠ずるを讀め、而して人の彼れを罵つて猥褻なる英語を用ゐるものとなし、又た禮を失するものとなすこと無し。
新字:切腹及び敵討の二制度に就いては、幾多海外文士の之を説いて、やゝ詳なるものあり。切腹又た割腹即ち世俗にはらきりと云ふは、其字の示すが如く、腹部を切りて自殺することなり。初めて此語を聞く者の或は叫びて云はん、『腹を切るは、何ぞ其の不合理なる』と。然り、外人の耳朶には、必ず先づ奇怪不合理の感を与ふべしと雖、凡そ沙翁を読みたるものならんには、之に由りて甚だしく奇異の感を起さざるべし。彼はブルタスの口に上ぼせて、『汝シーザーの魂魄現はれ、我が剣を逆にして、正しく我腹を刺さしむ』と云へるに非らずや。又た近時の英国詩宗が、『亜細亜の光』に於て、剣を以て女皇の腹を貫くを詠ずるを読め、而して人の彼れを罵つて猥褻なる英語を用ゐるものとなし、又た礼を失するものとなすこと無し。
書き下し
切腹及び敵討の二制度に就いては、幾多海外文士の之を説いて、やや詳なるものあり。切腹、又た割腹、即ち世俗にはらきりと云ふは、其字の示すが如く、腹部を切りて自殺することなり。初めて此語を聞く者の或は叫びて云はん、『腹を切るは、何ぞ其の不合理なる』と。然り、外人の耳朶には、必ず先づ奇怪不合理の感を与ふべしと雖、凡そシェイクスピアを読みたるものならんには、之に由りて甚だしく奇異の感を起さざるべし。彼はブルータスの口に上ぼせて、『汝シーザーの魂魄現はれ、我が剣を逆にして、正しく我腹を刺さしむ』と云へるに非らずや。又た近時の英国詩宗が『亜細亜の光』に於て、剣を以て女皇の腹を貫くを詠ずるを読め、而して人の彼れを罵つて猥褻なる英語を用ゐるものとなし、又た礼を失するものとなすこと無し。
現代語訳
切腹と敵討の二つの制度については、多くの海外の文人が論じて、やや詳しいものがあります。切腹、また割腹、世間でいうはらきりとは、字の示すとおり腹部を切って自殺することです。初めてこの言葉を聞く人は、叫んで言うかもしれません。腹を切るとは、何と不合理なことか、と。そのとおり、外国人の耳にはまず奇怪で不合理な感じを与えるでしょうが、およそシェイクスピアを読んだことのある人なら、これによってさほど奇異な感じを起こさないでしょう。彼はブルータスの口を借りて、汝シーザーの魂が現れ、我が剣を逆にしてまさしく我が腹を刺させる、と言っているではありませんか。また近ごろのイギリスの詩人が『アジアの光』で、剣によって女皇の腹を貫くのを詠んでいるのを読んでも、人は彼を猥褻な英語を使う者だとか、礼を失した者だとか罵ることはありません。
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