師導古典を学びたいすべての人に

武士道 / 第十一章 克己・蜻蛉つり今日はどこまで

紀貫之の曰く、『かやうの事、歌このむとてあるにしもあらざるべし、唐土もこゝも、思ふことに堪へぬ時のわざとぞ』と。母あり、其子の亡きを悲しみ、常時の如く、蜻蛉釣りに出てたるものと想ひなぞらへ、吾と我が遣る瀨なき懊惱悲苦を慰めんとして吟ずらく、蜻蛉つり今日はどこまで行つたやら。(千代)予は更に他の例を擧ぐるを止めん。血を吐く胸より滴々絞り出だされて、いとも貴き瓊琚珠玉の絲に繫がれたる我が國の哀歌悲詞を移して、之を外つ國の語に飜し出さんとすれば、反つて是れ、我が邦文學の至寶を蔑辱輕侮するの過に陷るべきを以てなり。只だ予は些か爰に、吾人の或は無情冷酷と見え、嘻笑と憂欝とのヒステリー性に交雜して、一見或は狂ならずやと怪しまるゝばかりなるに於て、吾人の心奥は眞に如何の狀を成せるかを說明し得んことをこれ期するのみ。

新字:紀貫之の曰く、『かやうの事、歌このむとてあるにしもあらざるべし、唐土もこゝも、思ふことに堪へぬ時のわざとぞ』と。母あり、其子の亡きを悲しみ、常時の如く、蜻蛉釣りに出てたるものと想ひなぞらへ、吾と我が遣る瀨なき懊悩悲苦を慰めんとして吟ずらく、蜻蛉つり今日はどこまで行つたやら。(千代)予は更に他の例を挙ぐるを止めん。血を吐く胸より滴々絞り出だされて、いとも貴き瓊琚珠玉の糸に繋がれたる我が国の哀歌悲詞を移して、之を外つ国の語に翻し出さんとすれば、反つて是れ、我が邦文学の至宝を蔑辱軽侮するの過に陥るべきを以てなり。只だ予は些か爰に、吾人の或は無情冷酷と見え、嘻笑と憂欝とのヒステリー性に交雑して、一見或は狂ならずやと怪しまるゝばかりなるに於て、吾人の心奥は真に如何の状を成せるかを説明し得んことをこれ期するのみ。

書き下し

紀貫之の曰く、『かやうの事、歌このむとてあるにしもあらざるべし、唐土もここも、思ふことに堪へぬ時のわざとぞ』と。母あり、其子の亡きを悲しみ、常時の如く蜻蛉釣りに出でたるものと想ひなぞらへ、吾と我が遣る瀬なき懊悩悲苦を慰めんとして吟ずらく、『蜻蛉つり今日はどこまで行つたやら』(千代)。予は更に他の例を挙ぐるを止めん。血を吐く胸より滴々絞り出だされて、いとも貴き瓊琚珠玉の糸に繋がれたる我が国の哀歌悲詞を移して、之を外つ国の語に翻し出さんとすれば、反つて是れ、我が邦文学の至宝を蔑辱軽侮するの過に陥るべきを以てなり。ただ予はいささかここに、吾人の或は無情冷酷と見え、嘻笑と憂鬱とのヒステリー性に交雑して、一見或は狂ならずやと怪しまるるばかりなるに於て、吾人の心奥は真に如何の状を成せるかを説明し得んことを、これ期するのみ。

現代語訳

紀貫之は、こういうことは歌を好むからあるのではないだろう、中国でもここでも、思いに堪えられないときの業なのだ、と言いました。ある母が子の死を悲しみ、いつものようにとんぼ釣りに出かけたものと思いなぞらえて、自分のやるせない悩みと苦しみを慰めようとして吟じました。とんぼ釣りは今日はどこまで行ったのやら、と。千代女の句です。私はこれ以上の例を挙げるのはやめましょう。血を吐く胸から一滴ずつ絞り出され、この上なく貴い宝玉の糸につながれたわが国の哀しい歌を、外国の言葉に移し翻そうとすれば、かえってわが国の文学の至宝を辱め軽んじる過ちに陥るからです。ただ私はここで少しばかり、私たちが無情で冷酷に見え、笑いと憂鬱のヒステリー性が入り混じって、一見すると狂っているのではないかと怪しまれるばかりであるときに、私たちの心の奥が本当はどうなっているかを説明できればと願うだけです。

解説

千代女の句が置かれます。とんぼ釣りは今日はどこまで行ったのやら。死んだ子がまだ遊びに出ているものと思いなして詠んだ句で、悲しみという語を一つも使わずに悲しみだけがあります。抑えた感情が詩という安全弁から漏れる、その最良の例です。そして新渡戸は、これ以上訳せば宝を辱めることになるとして例示をやめる。翻訳の限界を自ら認めた箇所でもあります。

この章句が説くこと

悲嘆千代女抑制安全弁

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる