武士道 / 譯序・幼児立夫の病中に成る
然るに此書初めて成りてより旣に十年、未だ和譯の出づる無し。予夙に之れが飜譯に志して、而して久しく遂げざりしが、昨秋之が完成を決して、今纔に其業を了へたり。博士の此著たる元、海外讀者の爲にせり。故に之を我國文に移ずに於て、世人の或は解知に苦しむものあらんことを憂へ、博士と議り、原文に就きて多少の修補制减を施したる所あり。而して譯文は悉く博士の校閲を經たりと雖、文字の責は一に譯者に在り。思ふに此譯書は飜譯として稍完璧に近きものなるべきを。されど菲才なる予が文章彫蟲の技に拙陋なるを憾む。此譯書は又た子が一家の悲事と關連するに至れり。譯文の大半は實に去年十二月十日三歲を以て逝きたる幼兒立夫の病中に成り、殊に『克己』の一章の如きは、彼が永眠に先だつ三日の夜深更、予は轉輾憂悶、眠らんとして眠る能はず、坐せんとして兒の痛苦呻吟を見るに忍びず、由つて屏後の床中に俯し、兒の唵々たる氣息を數へつゝ、筆を下し、文中記する所、即ち予が爲に識を爲すものならんことを恐れつつ、辛うじて脫稿したるものなり。
新字:然るに此書初めて成りてより旣に十年、未だ和訳の出づる無し。予夙に之れが翻訳に志して、而して久しく遂げざりしが、昨秋之が完成を決して、今纔に其業を了へたり。博士の此著たる元、海外読者の為にせり。故に之を我国文に移ずに於て、世人の或は解知に苦しむものあらんことを憂へ、博士と議り、原文に就きて多少の修補制减を施したる所あり。而して訳文は悉く博士の校閲を経たりと雖、文字の責は一に訳者に在り。思ふに此訳書は翻訳として稍完璧に近きものなるべきを。されど菲才なる予が文章彫虫の技に拙陋なるを憾む。此訳書は又た子が一家の悲事と関連するに至れり。訳文の大半は実に去年十二月十日三歳を以て逝きたる幼児立夫の病中に成り、殊に『克己』の一章の如きは、彼が永眠に先だつ三日の夜深更、予は転輾憂悶、眠らんとして眠る能はず、坐せんとして児の痛苦呻吟を見るに忍びず、由つて屏後の床中に俯し、児の唵々たる気息を数へつゝ、筆を下し、文中記する所、即ち予が為に識を為すものならんことを恐れつつ、辛うじて脫稿したるものなり。
書き下し
然るに此書初めて成りてより既に十年、未だ和訳の出づる無し。予つとに之れが翻訳に志して、而して久しく遂げざりしが、昨秋、之が完成を決して、今わずかに其業を了へたり。博士の此著たる、元、海外読者の為にせり。故に之を我国文に移すに於て、世人の或は解知に苦しむものあらんことを憂へ、博士と議り、原文に就きて多少の修補制減を施したる所あり。而して訳文は悉く博士の校閲を経たりと雖、文字の責は一に訳者に在り。思ふに此訳書は、翻訳としてやや完璧に近きものなるべきを。されど菲才なる予が文章、彫虫の技に拙陋なるを憾む。此訳書は又た予が一家の悲事と関連するに至れり。訳文の大半は実に、去年十二月十日、三歳を以て逝きたる幼児立夫の病中に成り、殊に『克己』の一章の如きは、彼が永眠に先だつ三日の夜深更、予は転輾憂悶、眠らんとして眠る能はず、坐せんとして児の痛苦呻吟を見るに忍びず、由つて屏後の床中に俯し、児の唵々たる気息を数へつつ、筆を下し、文中記する所、即ち予が為に識を為すものならんことを恐れつつ、辛うじて脱稿したるものなり。
現代語訳
ところがこの本が初めてできてからすでに十年、まだ日本語訳が出ていません。私は早くから翻訳を志しながら長く果たせずにいましたが、昨秋その完成を決め、今ようやくその仕事を終えました。博士のこの著作は、もともと海外の読者のために書かれたものです。ですからこれを日本語に移すにあたっては、世の人が理解に苦しむこともあろうと心配し、博士と相談して、原文にいくらか補いや削りを施したところがあります。訳文はすべて博士の校閲を経ていますが、文字の責任はひとえに訳者にあります。思うにこの訳書は、翻訳としてやや完璧に近いものでしょう。ただ才の乏しい私の文章が、細工の技に拙いことを残念に思います。この訳書はまた、私の家の悲しい出来事と結びつくことになりました。訳文の大半は実に、昨年十二月十日に三歳で亡くなった幼い子・立夫の病の間にできたもので、とくに克己の一章は、彼が永眠する三日前の夜更け、私は寝返りを打って悶え、眠ろうとしても眠れず、座ろうとしても子の苦しむ様を見るに忍びず、そこで屏風の後ろの床に伏して、子のかすかな息を数えながら筆を下し、文中に記すところがまさに自分のためのしるしとなるのではないかと恐れながら、辛うじて書き終えたものです。
解説
この章句が説くこと
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