武士道 / 第九章 忠節・ソクラテスは生きては良心に従う
ソクラテスは何如。其の誠心に奉ずる忠節の一片だに之を捨つることを拒否して懼れざりしと共に、又た忠實冷靜にして、此世の主たる國家の威命に甘從したるに非ずや。ソクラテスや、生きては其良心に從ひ、死しては其國に仕へたり。吁嗟、國家の威權徒らに肆大にして、其民に强ふるに、各自が良心の指命をも尙ほ擧げて之に捧ぐべしと命令せん其日こそ悲しけれ。武士道は、人の良心を以て君主の奴隷たらしむることを誨へず。トマス、モープレーは、誠に能く吾人の衷情を語るものなり。畏しや我大君、君のみもとに此身を捧ぐ。臣が生命は仰せのまゝなり。唯だ我が廉耻は然らず。生命を奉ずるは臣の道なり。さあれ、香しき名は、死すとも我が墓に生くれば、君が暗く汚れし業の爲とて、などか御心に任すべき。
新字:ソクラテスは何如。其の誠心に奉ずる忠節の一片だに之を捨つることを拒否して懼れざりしと共に、又た忠実冷静にして、此世の主たる国家の威命に甘従したるに非ずや。ソクラテスや、生きては其良心に従ひ、死しては其国に仕へたり。吁嗟、国家の威権徒らに肆大にして、其民に強ふるに、各自が良心の指命をも尚ほ挙げて之に捧ぐべしと命令せん其日こそ悲しけれ。武士道は、人の良心を以て君主の奴隷たらしむることを誨へず。トマス、モープレーは、誠に能く吾人の衷情を語るものなり。畏しや我大君、君のみもとに此身を捧ぐ。臣が生命は仰せのまゝなり。唯だ我が廉耻は然らず。生命を奉ずるは臣の道なり。さあれ、香しき名は、死すとも我が墓に生くれば、君が暗く汚れし業の為とて、などか御心に任すべき。
書き下し
ソクラテスは如何。其の誠心に奉ずる忠節の一片だに、之を捨つることを拒否して懼れざりしと共に、又た忠実冷静にして、此世の主たる国家の威命に甘従したるに非ずや。ソクラテスや、生きては其良心に従ひ、死しては其国に仕へたり。ああ、国家の威権いたづらに肆大にして、其民に強ふるに、各自が良心の指命をも、なほ挙げて之に捧ぐべしと命令せん、其日こそ悲しけれ。武士道は、人の良心を以て君主の奴隷たらしむることを誨へず。トマス・モウブレーは、まことに能く吾人の衷情を語るものなり。『畏しや我大君、君のみもとに此身を捧ぐ。臣が生命は仰せのままなり。ただ我が廉恥は然らず。生命を奉ずるは臣の道なり。さあれ、香しき名は、死すとも我が墓に生くれば、君が暗く汚れし業の為とて、などか御心に任すべき』。
現代語訳
ソクラテスはどうでしょうか。彼は誠実に奉じる忠節のひとかけらすら捨てることを拒んで恐れなかったと同時に、忠実で冷静に、この世の主である国家の命令に甘んじて従ったではありませんか。ソクラテスは、生きては自分の良心に従い、死しては国に仕えました。ああ、国家の権威がいたずらに大きくなり、国民に対して、各自の良心の指図までも挙げて捧げよと命令する、その日こそ悲しいことです。武士道は、人の良心を君主の奴隷にすることを教えません。トマス・モウブレーは、まことによく私たちの心情を語っています。畏れ多くも我が君、御前にこの身を捧げます。臣の命は仰せのままです。ただ私の名誉はそうではありません。命を差し出すのは臣の道です。しかし香しい名は、死んでも私の墓に生きるのですから、君の暗く汚れた仕事のために、どうして御心に任せられましょう、と。
解説

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