武士道 / 第九章 忠節・二人の主に兼ね仕うることを得る
此の推理の實現せらるゝことありとせん乎、然らば果して忠節の念は之に伴ふ尊を尊ぶの本能と共に、永遠に消滅すべき乎。吾人は此主に對する忠義を、彼君に移して、雙者に對して不信なること無く、此世の權威を掌る治者の臣たると共に、又た我良心の至聖殿に在ます天帝の僕たるを得るなり。數年前なりき。ベンサーを誤解せる學徒の好趣なる反動を誘起して、我國思想界を惑亂したることあり。至尊は無二の忠誠を以て仕へらるべきものなることを唱導するに熱心なるの餘、此輩は基督教徒を責むるに、其神其主に奉信を盟ふが故に不忠不臣に偏傾すとしたり。彼等は詭辯學者の巧智を缺ける辯論を街ひ煩瑣學徒の精緻を失へる煩瑣の理法を弄して、而して、人は一理より推せば、『シイザルの物はシイザルに歸し、神のものは神に歸し』、而して、『此れを親み彼れを疎ずること無くして、二人の主に兼ね仕ふることを得る』ものなるを曉らず。
新字:此の推理の実現せらるゝことありとせん乎、然らば果して忠節の念は之に伴ふ尊を尊ぶの本能と共に、永遠に消滅すべき乎。吾人は此主に対する忠義を、彼君に移して、双者に対して不信なること無く、此世の権威を掌る治者の臣たると共に、又た我良心の至聖殿に在ます天帝の僕たるを得るなり。数年前なりき。ベンサーを誤解せる学徒の好趣なる反動を誘起して、我国思想界を惑乱したることあり。至尊は無二の忠誠を以て仕へらるべきものなることを唱導するに熱心なるの余、此輩は基督教徒を責むるに、其神其主に奉信を盟ふが故に不忠不臣に偏傾すとしたり。彼等は詭弁学者の巧智を欠ける弁論を街ひ煩瑣学徒の精緻を失へる煩瑣の理法を弄して、而して、人は一理より推せば、『シイザルの物はシイザルに帰し、神のものは神に帰し』、而して、『此れを親み彼れを疎ずること無くして、二人の主に兼ね仕ふることを得る』ものなるを暁らず。
書き下し
此の推理の実現せらるることありとせんか、然らば果して忠節の念は、之に伴ふ尊を尊ぶの本能と共に、永遠に消滅すべきか。吾人は此主に対する忠義を彼君に移して、双者に対して不信なること無く、此世の権威を掌る治者の臣たると共に、又た我良心の至聖殿に在します天帝の僕たるを得るなり。数年前なりき。スペンサーを誤解せる学徒の、好趣なる反動を誘起して、我国思想界を惑乱したることあり。至尊は無二の忠誠を以て仕へらるべきものなることを唱導するに熱心なるの余り、此輩は基督教徒を責むるに、其神、其主に奉信を盟ふが故に不忠不臣に偏傾すとしたり。彼等は詭弁学者の巧智を欠ける弁論をてらひ、煩瑣学徒の精緻を失へる煩瑣の理法を弄して、而して人は一理より推せば、『シーザルの物はシーザルに帰し、神のものは神に帰し』、而して『此れを親み彼れを疎ずること無くして、二人の主に兼ね仕ふることを得る』ものなるを暁らず。
現代語訳
この推理が実現することがあるとすれば、忠節の念は、それに伴う尊いものを尊ぶ本能とともに、永遠に消滅するのでしょうか。私たちはこの主君に対する忠義をあの君に移して、双方に対して不実であることなく、この世の権威を握る統治者の臣であると同時に、自分の良心の至聖所におられる天の主の僕であることができます。数年前のことでした。スペンサーを誤解した学徒が興味深い反動を引き起こし、わが国の思想界を惑わせたことがあります。至尊は二つとない忠誠をもって仕えられるべきだと唱えることに熱心なあまり、この人たちはキリスト教徒を責めて、その神とその主に信仰を誓うから不忠に傾く、としました。彼らは詭弁学者の巧みさを欠いた弁論をてらい、煩瑣な学者の精緻さを失った煩瑣な理屈を弄して、人は一つの理から推せば、カエサルのものはカエサルに返し、神のものは神に返し、こちらを親しみあちらを疎んじることなく、二人の主に兼ねて仕えることができるのだ、と分かっていないのです。
解説
この章句が説くこと
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