武士道 / 第八章 名譽・忠節は封建道徳の柱梁なり
武士は名を重んじて、命を輕んず。故に一旦大事あるに臨んでは、從容として死に就く、歸するが如きものあり。而して武士の生命を見ること、鴻毛の如く、之を犠牲として、毫も辭せざりしは、殊に忠義の一途に於て之を見る。盖し忠節の義務は、即ち封建道德の柱梁なり、其の整然たる穹門を成すの要石なりき。
新字:武士は名を重んじて、命を軽んず。故に一旦大事あるに臨んでは、従容として死に就く、帰するが如きものあり。而して武士の生命を見ること、鴻毛の如く、之を犠牲として、毫も辞せざりしは、殊に忠義の一途に於て之を見る。盖し忠節の義務は、即ち封建道徳の柱梁なり、其の整然たる穹門を成すの要石なりき。
書き下し
武士は名を重んじて、命を軽んず。故に一旦大事あるに臨んでは、従容として死に就く、帰するが如きものあり。而して武士の生命を見ること鴻毛の如く、之を犠牲として毫も辞せざりしは、殊に忠義の一途に於て之を見る。けだし忠節の義務は、即ち封建道徳の柱梁なり、其の整然たる穹門を成すの要石なりき。
現代語訳
武士は名を重んじて命を軽んじます。ですからひとたび大事に臨めば、落ち着いて死に就くこと、家に帰るようなものがありました。そして武士が生命を鳥の羽ほどに軽く見て、これを犠牲にすることを少しもためらわなかったのは、とくに忠義の一筋においてこれを見ることができます。思うに忠節の義務は封建道徳の柱と梁であり、その整然としたアーチを成す要石でした。
解説
第八章の結びで、名誉から忠節へ話が移ります。命を軽んじたのは名のためだが、それが最もはっきり現れるのは忠義においてだ、と。そして忠節を建築の要石に喩えます。アーチの頂点にある一つの石を抜けば全体が崩れる。封建の道徳が忠節を中心に組み上がっていたという構造の指摘で、次章がその要石を扱うことになります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
名誉忠節要石構造犠牲
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