武士道 / 第六章 禮儀・茶の湯は正念正覚の第一要件
然りと雖、人或は云はん、區々たる禮儀の、爭でか能く高遠なる精神的造詣の道たるを得べきやと。されど知らずや、西諺にも『路皆、羅馬に通ず』と云へるを。最も簡易の事物と雖、亦た之を以て技藝となし、且つ精神修養の道となすを得べし。即ち例せば、茶の湯の如き是なり。或は茶を啜るも亦た美術の一端なるかと嗤ふものあらん。されど兒童の砂上に畫き、蠻人の岩石に刻むは、即ちラハアエルを出し、マイケル、アンゼロを生むの約束なりき。然るを况んや印度の隱者が、脫世間の冥想より生ぜる、喫茶の進みて、宗教及び道德の侍女たる能はざるの理あらんや。心情の恬淡、擧止の平靜なるは、茶の湯の第一義にして、又た正念正覺の第一要件なり。飽くまで清らかなる小室は、浮世の擾がしきを許さず、既に思を塵外に誘ふに足るものあり。
新字:然りと雖、人或は云はん、区々たる礼儀の、争でか能く高遠なる精神的造詣の道たるを得べきやと。されど知らずや、西諺にも『路皆、羅馬に通ず』と云へるを。最も簡易の事物と雖、亦た之を以て技芸となし、且つ精神修養の道となすを得べし。即ち例せば、茶の湯の如き是なり。或は茶を啜るも亦た美術の一端なるかと嗤ふものあらん。されど児童の砂上に画き、蠻人の岩石に刻むは、即ちラハアエルを出し、マイケル、アンゼロを生むの約束なりき。然るを況んや印度の隠者が、脫世間の冥想より生ぜる、喫茶の進みて、宗教及び道徳の侍女たる能はざるの理あらんや。心情の恬淡、挙止の平静なるは、茶の湯の第一義にして、又た正念正覚の第一要件なり。飽くまで清らかなる小室は、浮世の擾がしきを許さず、既に思を塵外に誘ふに足るものあり。
書き下し
然りと雖、人或は云はん、区々たる礼儀の、いかでか能く高遠なる精神的造詣の道たるを得べきやと。されど知らずや、西諺にも『路皆、羅馬に通ず』と云へるを。最も簡易の事物と雖、亦た之を以て技芸となし、且つ精神修養の道となすを得べし。即ち例せば、茶の湯の如き是なり。或は茶を啜るも亦た美術の一端なるかと嗤ふものあらん。されど児童の砂上に画き、蛮人の岩石に刻むは、即ちラファエロを出し、ミケランジェロを生むの約束なりき。然るを況んや、印度の隠者が脱世間の冥想より生ぜる喫茶の、進みて宗教及び道徳の侍女たる能はざるの理あらんや。心情の恬淡、挙止の平静なるは、茶の湯の第一義にして、又た正念正覚の第一要件なり。飽くまで清らかなる小室は、浮世の騒がしきを許さず、既に思を塵外に誘ふに足るものあり。
現代語訳
とはいえ、人はこう言うかもしれません。取るに足らない礼儀が、どうして高遠な精神的境地への道になりえようか、と。しかしご存じないでしょうか、西洋の諺にも、道はみなローマに通じる、とあるのを。最も簡単な事物であっても、それを技芸とし、また精神修養の道とすることができます。たとえば茶の湯がそれです。茶をすするのも美術の一端かと笑う人もいるでしょう。しかし子どもが砂の上に絵を描き、未開の人が岩に刻むことが、ラファエロを出しミケランジェロを生む約束だったのです。まして、インドの隠者が世を離れた瞑想から生んだ喫茶が、進んで宗教と道徳の侍女となれない理由がありましょうか。心情が淡々として、振る舞いが平静であることは、茶の湯の第一義であり、また正しい念と正しい悟りの第一要件です。どこまでも清らかな小さな室は、浮世の騒がしさを許さず、すでに思いを俗塵の外へ誘うに足るものがあります。
解説
この章句が説くこと
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