師導古典を学びたいすべての人に

武士道 / 第五章 仁・愛不忍の心・国家人民の立てたる君なり

予は固より何の壓制をも是とする能はず。されど壓制と封建とを同視するは、甚だ謬れり。『王は國家第一の臣僕なり』とのフレデリツキ大帝の名言は、立法學者の評して、自由主義進步の一新時代を迎ふるの聲なりと云ふものなり。然るに時代は奇遇し、日本東北の僻壤に於て、米澤公鷹山も亦た帝と同一の宣言をなし世子を誠むるに、『國家人民の立てたる君にして、君の爲に立てたる國家人民には無之候』と曰ひて、封建の必ずしも壓制暴虐に非らざるを明言せるあり。封建の君主たるもの、縱ひ君臣互に負ふの義務あるを曉らざりしとすとも、尙ほ祖宗に對し、天に對して負ふ所ありとの高大なる思想を感じ、臣民は天より委ねらメターナル、れたる子にして、君主は其父なりとす。

新字:予は固より何の圧制をも是とする能はず。されど圧制と封建とを同視するは、甚だ謬れり。『王は国家第一の臣僕なり』とのフレデリツキ大帝の名言は、立法学者の評して、自由主義進歩の一新時代を迎ふるの声なりと云ふものなり。然るに時代は奇遇し、日本東北の僻壤に於て、米沢公鷹山も亦た帝と同一の宣言をなし世子を誠むるに、『国家人民の立てたる君にして、君の為に立てたる国家人民には無之候』と曰ひて、封建の必ずしも圧制暴虐に非らざるを明言せるあり。封建の君主たるもの、縦ひ君臣互に負ふの義務あるを暁らざりしとすとも、尚ほ祖宗に対し、天に対して負ふ所ありとの高大なる思想を感じ、臣民は天より委ねらメターナル、れたる子にして、君主は其父なりとす。

書き下し

予は固より何の圧制をも是とする能はず。されど圧制と封建とを同視するは、甚だ謬れり。『王は国家第一の臣僕なり』とのフレデリック大帝の名言は、立法学者の評して、自由主義進歩の一新時代を迎ふるの声なりと云ふものなり。然るに時代は奇遇し、日本東北の僻壤に於て、米沢公鷹山も亦た帝と同一の宣言をなし、世子を戒むるに、『国家人民の立てたる君にして、君の為に立てたる国家人民には無之候』と曰ひて、封建の必ずしも圧制暴虐に非らざるを明言せるあり。封建の君主たるもの、たとひ君臣互に負ふの義務あるを暁らざりしとすとも、なお祖宗に対し、天に対して負ふ所ありとの高大なる思想を感じ、臣民は天より委ねられたる子にして、君主は其父なりとす。

現代語訳

私はもとよりいかなる圧政も是とすることはできません。しかし圧政と封建を同じものと見るのは、大きな誤りです。王は国家第一の臣僕である、というフリードリヒ大王の名言は、立法学者が評して、自由主義の進歩する新時代を迎える声だと言うものです。ところが時代は奇しくも一致し、日本の東北の片田舎において、米沢公である上杉鷹山もまた大王と同じ宣言をなし、世継ぎを戒めて、国家と人民が立てた君であって、君のために立てた国家人民ではございません、と言い、封建が必ずしも圧政や暴虐ではないことを明言しました。封建の君主たる者は、たとえ君臣が互いに負う義務があることを知らなかったとしても、なお祖先に対し天に対して負うところがあるという高く大きな思想を感じ、臣民は天から委ねられた子であり、君主はその父であるとしました。

解説

上杉鷹山の伝国の辞が引かれます。国家と人民が立てた君であって、君のために国家人民があるのではない。フリードリヒ大王の、王は国家第一の臣僕であるという言葉と同じ内容が、同じころ日本の片田舎で言われていたという指摘です。権力の正統性がどこにあるかという問いに、封建の側から出された答えです。師導の『後世への最大遺物』でも内村鑑三が上杉鷹山を挙げており、明治の知識人がこの藩主をどう見ていたかが分かります

この章句が説くこと

鷹山君主正統責任封建

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる