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武士道 / 第四章 勇・敢爲堅忍の精神・衣のたてはほころびにけり

戰役は啻に獸力を格するのみに非らず、又た才智を較すべき塲裡たるの觀ありき。前七年の役、衣川の戰に、敵軍潰走し、其將安倍貞任纔に身を以て遁るゝや義家之を追ひ、きたなくも敵に後を見するものかなしばし返へせやとぞ呼ばゝりける。貞任乃ち見かへれば、義家弓を引きしぼりつゝ、大音に、衣のたてはほころびにけり。と云ひかけたれば、貞任馬の鼻を引返し、聲に應じて、年を經し糸のみだれの苦しさに。と詠じたる、あまりの優しさに、義家は引きたる弓を弛べ、番ひし箭を棄て、掌中の敵を放ちて其の遁ぐるにまかせたり。人怪しみて其故を問ふ。答へて、貞任ほどの剛の者なればこそ、敵に辭をかけられて、事の急なるに、死を前に置きながら、斯くやさしくも致したれ。

新字:戦役は啻に獣力を格するのみに非らず、又た才智を較すべき塲裡たるの観ありき。前七年の役、衣川の戦に、敵軍潰走し、其将安倍貞任纔に身を以て遁るゝや義家之を追ひ、きたなくも敵に後を見するものかなしばし返へせやとぞ呼ばゝりける。貞任乃ち見かへれば、義家弓を引きしぼりつゝ、大音に、衣のたてはほころびにけり。と云ひかけたれば、貞任馬の鼻を引返し、声に応じて、年を経し糸のみだれの苦しさに。と詠じたる、あまりの優しさに、義家は引きたる弓を弛べ、番ひし箭を棄て、掌中の敵を放ちて其の遁ぐるにまかせたり。人怪しみて其故を問ふ。答へて、貞任ほどの剛の者なればこそ、敵に辞をかけられて、事の急なるに、死を前に置きながら、斯くやさしくも致したれ。

書き下し

戦役はただに獣力を格するのみに非らず、又た才智を較すべき場裡たるの観ありき。前七年の役、衣川の戦に、敵軍潰走し、其将安倍貞任わずかに身を以て遁るるや、義家之を追ひ、「きたなくも敵に後を見するものかな、しばし返へせや」とぞ呼ばわりける。貞任乃ち見かへれば、義家弓を引きしぼりつつ、大音に「衣のたてはほころびにけり」と云ひかけたれば、貞任、馬の鼻を引返し、声に応じて「年を経し糸のみだれの苦しさに」と詠じたる、あまりの優しさに、義家は引きたる弓を弛べ、番ひし箭を棄て、掌中の敵を放ちて其の遁ぐるにまかせたり。人怪しみて其故を問ふ。答へて、貞任ほどの剛の者なればこそ、敵に辞をかけられて、事の急なるに、死を前に置きながら、かくやさしくも致したれ。

現代語訳

戦は単に獣のような力を競うだけでなく、才知を比べる場でもあるという趣がありました。前九年の役の衣川の戦いで敵軍が崩れ、その将である安倍貞任がわずかに身一つで逃れると、源義家はこれを追い、汚くも敵に背を見せるものだな、しばし返せ、と呼びかけました。貞任が振り返ると、義家は弓を引き絞りながら大声で、衣の縦糸はほころびてしまったな、と言いかけた。すると貞任は馬の鼻を引き返し、その声に応じて、年を経た糸の乱れの苦しさに、と詠みました。あまりの優雅さに、義家は引いた弓を緩め、つがえた矢を捨て、手中の敵を放って逃げるにまかせました。人が不思議に思ってその理由を問うと、答えて、貞任ほどの剛の者だからこそ、敵に言葉をかけられて、事が急で死を前にしながら、こんなに優雅にできたのだ、と。

解説

衣川の戦いの連歌の逸話です。義家が上の句を投げ、貞任が下の句で返した。衣川という地名を衣の縦糸に掛けた掛詞で、死を前にして掛詞を返す余裕が、義家に弓を下ろさせました。戦は力だけでなく才知を比べる場でもあるという、この段の冒頭の一行がそのまま実演されています。なお、この戦いは前九年の役として知られ、底本の前七年は誤りです。武の場で文が勝負を決めた例として、この章の白眉にあたります。

この章句が説くこと

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