武士道 / 第三章 正義・義理は厳酷なる教師の如し
他の道德責任に於けるも亦た皆斯の如し。今夫れ、人の義務を厭ふや、義理は直ちに現はれ來りて、此れより免る能はざらしむ。義理は、譬ふるに嚴酷なる教師の如し、笞を執りて懶惰の兒童に臨み、其分を致さしむ。されば義理は道義の力の副位に在りて、彼の基督の教の、愛即ち法を以て動機とするとは天壤の差あり。要するに義理は人爲の社會、即ち血統爵位の如き、人生偶然の差等の、階級の序を成し、家族は國家の單位たり、年齒は才幹よりも重く、自然の愛情の、往々人爲の專横なる慣習に屈從する社會の狀態の產物なり。義理は人爲なるを以て、遂に漠然たる觀念に陷り、唯だ彼を說明し、此を是認するの儀則となり終れり。例せば、母たるものゝ、止むを得ざるに當りては、弟妹を犠牲として、長子を救ひ、女子たるものゝ貞操を賣りて、父の酒色を購ふことある、は何が故ぞ、是れ即ち義理なりと稱す。
新字:他の道徳責任に於けるも亦た皆斯の如し。今夫れ、人の義務を厭ふや、義理は直ちに現はれ来りて、此れより免る能はざらしむ。義理は、譬ふるに厳酷なる教師の如し、笞を執りて懶惰の児童に臨み、其分を致さしむ。されば義理は道義の力の副位に在りて、彼の基督の教の、愛即ち法を以て動機とするとは天壤の差あり。要するに義理は人為の社会、即ち血統爵位の如き、人生偶然の差等の、階級の序を成し、家族は国家の単位たり、年齒は才幹よりも重く、自然の愛情の、往々人為の専横なる慣習に屈従する社会の状態の産物なり。義理は人為なるを以て、遂に漠然たる観念に陥り、唯だ彼を説明し、此を是認するの儀則となり終れり。例せば、母たるものゝ、止むを得ざるに当りては、弟妹を犠牲として、長子を救ひ、女子たるものゝ貞操を売りて、父の酒色を購ふことある、は何が故ぞ、是れ即ち義理なりと称す。
書き下し
他の道徳責任に於けるも亦た皆かくの如し。今夫れ、人の義務を厭ふや、義理は直ちに現はれ来りて、此れより免る能はざらしむ。義理は、譬ふるに厳酷なる教師の如し。笞を執りて懶惰の児童に臨み、其分を致さしむ。されば義理は道義の力の副位に在りて、彼の基督の教の、愛即ち法を以て動機とするとは天壤の差あり。要するに義理は人為の社会、即ち血統爵位の如き、人生偶然の差等の、階級の序を成し、家族は国家の単位たり、年歯は才幹よりも重く、自然の愛情の、往々人為の専横なる慣習に屈従する社会の状態の産物なり。義理は人為なるを以て、遂に漠然たる観念に陥り、唯だ彼を説明し、此を是認するの儀則となり終れり。例せば、母たるものの、止むを得ざるに当りては、弟妹を犠牲として、長子を救ひ、女子たるものの貞操を売りて、父の酒色を購ふことある、は何が故ぞ、是れ即ち義理なりと称す。
現代語訳
他の道徳的な責任についてもみな同じです。人が義務を嫌うと、義理がすぐに現れてきて、そこから逃れられなくします。義理はたとえれば厳しい教師のようなものです。鞭を取って怠けた子どもに臨み、その分を果たさせます。ですから義理は道義の力の二番手にあって、キリストの教えが愛すなわち法を動機とするのとは天と地の差があります。要するに義理は人為の社会、すなわち血統や爵位のような人生の偶然の差が階級の序列を成し、家族が国家の単位であり、年齢が才能より重く、自然の愛情がしばしば人為の横暴な慣習に屈従する、そういう社会状態の産物です。義理は人為であるため、ついにぼんやりした観念に陥り、ただあれを説明しこれを是認するための決まりになり終わりました。たとえば母が、やむを得ないときには弟妹を犠牲にして長男を救い、娘が貞操を売って父の酒や女の代を払うことがある。それはなぜか。これが義理だと称するのです。
解説
この章句が説くこと
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