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武士道 / 第三章 正義・節義は人の体に骨あるが如し

義は武士道の嚴訓也。武士最も醜汚奸邪を惡む。義の觀念には、或は誤謬に失せるものあらん、或は狹隘に過ぐるものあらん。名ある武士は、此れが定義を與へて、義は勇の相手にて、裁斷の心なり、道理に任せて决心して、猶豫せざる心を云ふなり。死すべき塲合に死し、討つべき場合に討つことなり。(林子平)と云ひ、又た一人は、說明して、節義は例へて云はゞ人の體に骨あるが如し。骨無ければ、首も正しく上に在ることを得ず。されば人はオ能ありとても、學問ありとても、節義なければ、世に立つ事を得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけの事缺かぬなり。(眞木和泉)と曰へり。孟子は『仁人心也、義人路也』と日ひ、且つ嘆ずらく『舍其路而弗由、放其心而不知求、哀哉。

新字:義は武士道の厳訓也。武士最も醜汚奸邪を悪む。義の観念には、或は誤謬に失せるものあらん、或は狭隘に過ぐるものあらん。名ある武士は、此れが定義を与へて、義は勇の相手にて、裁断の心なり、道理に任せて決心して、猶予せざる心を云ふなり。死すべき塲合に死し、討つべき場合に討つことなり。(林子平)と云ひ、又た一人は、説明して、節義は例へて云はゞ人の体に骨あるが如し。骨無ければ、首も正しく上に在ることを得ず。されば人はオ能ありとても、学問ありとても、節義なければ、世に立つ事を得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけの事欠かぬなり。(真木和泉)と曰へり。孟子は『仁人心也、義人路也』と日ひ、且つ嘆ずらく『舎其路而弗由、放其心而不知求、哀哉。

書き下し

義は武士道の厳訓なり。武士最も醜汚奸邪を悪む。義の観念には、或は誤謬に失せるものあらん、或は狭隘に過ぐるものあらん。名ある武士は、此れが定義を与へて、『義は勇の相手にて、裁断の心なり。道理に任せて決心して、猶予せざる心を云ふなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり』(林子平)と云ひ、又た一人は説明して、『節義は例へて云はば、人の体に骨あるが如し。骨無ければ、首も正しく上に在ることを得ず。されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ、世に立つ事を得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけの事欠かぬなり』(真木和泉)と曰へり。孟子は『仁は人の心なり、義は人の路なり』と曰ひ、且つ嘆ずらく『其の路を舎てて由らず、其の心を放ちて求むるを知らず、哀しきかな』と。

現代語訳

義は武士道の厳しい教えです。武士は最も醜さと悪を憎みます。義の観念には、誤りに陥るものもあり、狭すぎるものもあるでしょう。名のある武士はこれを定義して、義は勇の相手であり、裁き定める心である。道理にまかせて決心し、ためらわない心をいう。死ぬべき場合に死に、討つべき場合に討つことである、と言い(林子平)、また別の一人は説明して、節義はたとえば人の体に骨があるようなものだ。骨がなければ首も正しく上にあることができない。だから人は才能があっても学問があっても、節義がなければ世に立つことができない。節義があれば、不器用で不調法でも、武士としてのことは欠けない、と言いました(真木和泉)。孟子は、仁は人の心であり義は人の路である、と言い、さらに嘆いて、その路を捨てて通らず、その心を放って求めようとしない、哀しいことだ、と。

解説

義の定義が三人の言葉で示されます。林子平は、ためらわずに決める心。真木和泉は、体の骨。才能や学問があっても骨がなければ立てないという比喩が強烈です。そして孟子の、仁は心、義は路という一句。心と道の両方が要るという構えで、師導には『孟子』も収めています。義を勇の相手と置いているのも大事で、次章の勇へ自然につながる配置になっています。

この章句が説くこと

節義決断孟子

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