武士道 / 第二章 武士道の淵源・良知は天神の光明なり
故に心は活物にして、常に照々たり」と。又た曰く、『其本體の靈明は常に照々たり、その靈明人意に渡らず、自然より發見して、よく其善惡を照らすを良知と云ふ。かの天神の光明なり』と。何ぞ其語のアイザツク、ペニントン及び他の神秘哲學家の說と一に調を諧しくするの甚しきや。予は思へらく、神道の簡易なる教義に現はれたるが如き日本人の心は、特に陽明の教理を納るゝが爲に開放せられたるものなりと。陽明は良心不惑の理を、極端なる超自然主義に馳せ、良心は即ち善惡邪正を糺すと共に、又た心理的事實、物質的現象をも鑑別するの能ありとせり。其唯心說は、バークレー若くはフイヒテを凌駕するに至らずとすとも少くとも彼等と齊しく、人智以外に物體の存在することを否定するものなり。
新字:故に心は活物にして、常に照々たり」と。又た曰く、『其本体の霊明は常に照々たり、その霊明人意に渡らず、自然より発見して、よく其善悪を照らすを良知と云ふ。かの天神の光明なり』と。何ぞ其語のアイザツク、ペニントン及び他の神秘哲学家の説と一に調を諧しくするの甚しきや。予は思へらく、神道の簡易なる教義に現はれたるが如き日本人の心は、特に陽明の教理を納るゝが為に開放せられたるものなりと。陽明は良心不惑の理を、極端なる超自然主義に馳せ、良心は即ち善悪邪正を糺すと共に、又た心理的事実、物質的現象をも鑑別するの能ありとせり。其唯心説は、バークレー若くはフイヒテを凌駕するに至らずとすとも少くとも彼等と斉しく、人智以外に物体の存在することを否定するものなり。
書き下し
『故に心は活物にして、常に照々たり』と。又た曰く、『其本体の霊明は常に照々たり、その霊明、人意に渡らず、自然より発見して、よく其善悪を照らすを良知と云ふ。かの天神の光明なり』と。何ぞ其語の、アイザック・ペニントン及び他の神秘哲学家の説と、一に調を諧しくするの甚しきや。予は思へらく、神道の簡易なる教義に現はれたるが如き日本人の心は、特に陽明の教理を納るるが為に開放せられたるものなりと。陽明は良心不惑の理を、極端なる超自然主義に馳せ、良心は即ち善悪邪正を糺すと共に、又た心理的事実、物質的現象をも鑑別するの能ありとせり。其唯心説は、バークレーもしくはフィヒテを凌駕するに至らずとすとも、少くとも彼等と斉しく、人智以外に物体の存在することを否定するものなり。
現代語訳
ゆえに心は生きたもので、常に明るく照っている、と。またこう言います。その本体の霊妙な明るさは常に照っており、その明るさは人の意図を通らず、自然に現れて、よくその善悪を照らす。これを良知という。あの天の神の光である、と。何とその言葉が、アイザック・ペニントンや他の神秘哲学者の説と、ぴたりと調子を合わせていることでしょう。私は思います、神道の単純な教義に現れたような日本人の心は、とくに王陽明の教理を受け入れるために開かれていたのだと。陽明は良心が惑わないという理を、極端な超自然主義まで進め、良心は善悪や正邪を正すと同時に、心理的な事実や物質的な現象をも見分ける力があるとしました。その唯心説は、バークリーやフィヒテを凌ぐとまでは言えないとしても、少なくとも彼らと同じく、人の知恵の外に物体が存在することを否定するものです。
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