武士道 / 第二章 武士道の淵源・国土は神と祖宗の霊の宿る聖廟
されど吾人の反省は道德的なるよりも、寧ろ人々の國民的自覺を主とす。天然崇拜の念は、人をして衷心深く此國土に愛着せしめ、祖先崇拜の念は、人をして血統の源に溯り、帝室を以て、全國民の宗家なりと信ぜしむ。日本人の思想。にては、國土は單に金銀を掘り、五穀を植うるの土壤たるのみに非ずして、即ち神と祖宗の靈との宿れる聖廟なりとす。吾人の觀念よりせば、至尊チーフ、コは單に法治國の警務長官たり。治治國の保證著たるものに非らず。寔に昊天の權化とし、其靈威と德澤とを體して、此國土に降臨せるものなりと信ず。プートミー氏が、英國王家を評して、『啻に權威を體するのみに非らずして、又た國家統一の造營者なり、其標準なり』と云へるを眞理なりとせば、予は信ず、更に此說を擴充して、此れぞ洵に日本帝道を謂ふべきなりと。
新字:されど吾人の反省は道徳的なるよりも、寧ろ人々の国民的自覚を主とす。天然崇拝の念は、人をして衷心深く此国土に愛着せしめ、祖先崇拝の念は、人をして血統の源に溯り、帝室を以て、全国民の宗家なりと信ぜしむ。日本人の思想。にては、国土は単に金銀を掘り、五穀を植うるの土壤たるのみに非ずして、即ち神と祖宗の霊との宿れる聖廟なりとす。吾人の観念よりせば、至尊チーフ、コは単に法治国の警務長官たり。治治国の保證著たるものに非らず。寔に昊天の権化とし、其霊威と徳沢とを体して、此国土に降臨せるものなりと信ず。プートミー氏が、英国王家を評して、『啻に権威を体するのみに非らずして、又た国家統一の造営者なり、其標準なり』と云へるを真理なりとせば、予は信ず、更に此説を擴充して、此れぞ洵に日本帝道を謂ふべきなりと。
書き下し
されど吾人の反省は道徳的なるよりも、寧ろ人々の国民的自覚を主とす。天然崇拝の念は、人をして衷心深く此国土に愛着せしめ、祖先崇拝の念は、人をして血統の源に溯り、帝室を以て、全国民の宗家なりと信ぜしむ。日本人の思想にては、国土は単に金銀を掘り、五穀を植うるの土壌たるのみに非ずして、即ち神と祖宗の霊との宿れる聖廟なりとす。吾人の観念よりせば、至尊は単に法治国の警務長官たり、憲政国の保証者たるものに非らず。まことに昊天の権化として、其霊威と徳沢とを体して、此国土に降臨せるものなりと信ず。ブートミー氏が、英国王家を評して、『ただに権威を体するのみに非らずして、又た国家統一の造営者なり、其標準なり』と云へるを真理なりとせば、予は信ず、更に此説を拡充して、此れぞまことに日本帝道を謂ふべきなりと。
現代語訳
ただし私たちの反省は、道徳的であるよりむしろ人々の国民としての自覚を主とします。自然を崇拝する心は、人を心の底からこの国土に愛着させ、祖先を崇拝する心は、人を血統の源に遡らせて、皇室を全国民の本家であると信じさせます。日本人の思想では、国土は単に金銀を掘り五穀を植える土壌であるだけでなく、神と祖先の霊が宿る聖なる廟だとします。私たちの観念からすれば、至尊は単に法治国の警察長官であったり、憲政国の保証者であったりするものではありません。まことに天の権化として、その霊威と恵みを体して、この国土に降臨したものだと信じます。ブートミー氏がイギリス王家を評して、ただ権威を体するだけでなく、国家統一の造営者であり、その基準である、と言ったことを真理とするなら、私は信じます、さらにこの説を広げて、これこそまことに日本の帝道と言うべきである、と。
解説
この章句が説くこと
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