武士道 / 第一章 武士道の倫理系・武家法度は道徳を説かない
されど英國憲法には、大憲章及び人身保護律を基とせるありと雖、日本武士道に至りては、大に此れと其趣を異にせり。第十七世紀の頃に出でたる『武家法度』は十三條の簡明なるものより成り、主として婚姻、城廓、徒黨等に關し之を規定したりと雖、道德上の訓戒に至りては甚だ稀故に我國武士道は彼時、此處を指して、『尋ねて其源を知る』と云ふを得ず。唯だ封建の世に造びて、其形態を完成したるものなるを以て、源を此れと共にすと稱すべし。而して封建の雜多なる經緯より成れるが如く、武士道も亦た其然るものありき。抑も英國の封建制度は、ノルン征服を以て興隆せりと記す。此れより百年、即ち第十二世紀の末造に追び、源賴朝覇府を鎌倉に開きたるは、實に我國封建の始なりき。
新字:されど英国憲法には、大憲章及び人身保護律を基とせるありと雖、日本武士道に至りては、大に此れと其趣を異にせり。第十七世紀の頃に出でたる『武家法度』は十三条の簡明なるものより成り、主として婚姻、城廓、徒党等に関し之を規定したりと雖、道徳上の訓戒に至りては甚だ稀故に我国武士道は彼時、此処を指して、『尋ねて其源を知る』と云ふを得ず。唯だ封建の世に造びて、其形態を完成したるものなるを以て、源を此れと共にすと称すべし。而して封建の雑多なる経緯より成れるが如く、武士道も亦た其然るものありき。抑も英国の封建制度は、ノルン征服を以て興隆せりと記す。此れより百年、即ち第十二世紀の末造に追び、源頼朝覇府を鎌倉に開きたるは、実に我国封建の始なりき。
書き下し
されど英国憲法には、大憲章及び人身保護律を基とせるありと雖、日本武士道に至りては、大に此れと其趣を異にせり。第十七世紀の頃に出でたる『武家諸法度』は十三条の簡明なるものより成り、主として婚姻、城郭、徒党等に関し之を規定したりと雖、道徳上の訓戒に至りては甚だ稀なり。故に我国武士道は、彼時、此処を指して「尋ねて其源を知る」と云ふを得ず。唯だ封建の世に及びて、其形態を完成したるものなるを以て、源を此れと共にすと称すべし。而して封建の雑多なる経緯より成れるが如く、武士道も亦た其然るものありき。抑も英国の封建制度は、ノルマン征服を以て興隆せりと記す。此れより百年、即ち第十二世紀の末造に及び、源頼朝、覇府を鎌倉に開きたるは、実に我国封建の始なりき。
現代語訳
しかしイギリス憲法にはマグナ・カルタや人身保護律という基があるのに対して、日本の武士道は大いに趣を異にします。十七世紀ごろに出た武家諸法度は十三条の簡明なものから成り、主に婚姻、城郭、徒党などについて規定していますが、道徳上の訓戒はきわめて稀です。ですからわが国の武士道は、この時、この場所を指して、尋ねてその源を知ると言うことができません。ただ封建の世になってその形を完成させたものですから、源を封建制度と共にすると言うべきでしょう。そして封建制度が雑多な経緯から成ったように、武士道もまたそうでした。もともとイギリスの封建制度はノルマン征服によって興隆したと記されます。それから百年、すなわち十二世紀の末に及んで、源頼朝が幕府を鎌倉に開いたのが、実にわが国の封建の始まりでした。
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第一章 武士道の倫理系・さむらひは家来の意である然るに英国に於ては、ウィリアム(征服王)以前、既に久しく封建社会の要素の存在せるを認め、日本封建も亦た必ずしも鎌倉時代を待つて初めて播種せられたるものにあらず。欧洲に於けるも亦た日本に於けるも、封建制度の確立せらるるや、即ち武門武士なるもの、自から頭角を露はし来れり。此輩を称して「さむらひ・侍」と云ふは、字義より推すに、上古の英国に於ける「クニヒト」(cniht, knecht, knight)に等しく、家来又は侍臣の謂にして、其地位たる、大シーザーの書に、アキタニアに在りたりと記せる「ソルドゥリイ」(soldurii)若くは、タキトゥスの古史に散見せる、彼が時世の独逸種族の酋長に隷属したりし「コミタチ」(comitati)と相似たり。
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