武士道 / 第一章 武士道の倫理系・マルクスが封建の活例と呼んだ
予も亦た斯人の輩に倣ひ、其國語を假りて、我武士道を研究するを以て、自から心に快しとするものなり。悲しむべし、外人の東洋に關する知識に缺乏せるの甚しきや。彼の識見該博なること、ジヨージ、ミラー博士の如きを以てして、尙且つ武士道若くは此類の制度は、古代史の邦國、又は現時の東洋に於て、之を認むること能はずと斷言せり。さりながら、此の好博士の名著『歷史哲理解』第三版の刊行せられたるは、水師提督ペリーの浦賀に來りて、我朝二百年鎖國の門戶を叩きたると、其年を同じうするより之を見れば、當年のミラー博士が無識も亦た大に恕すべきものあらん乎。此より後十餘年我封建制度の將に滅亡せんとして、氣息奄々たりし時に當り、カール、マークスは『資本論中にて、社會學及び政治學よりして、封建制度の特質を研究せんとせば、現に日本に於て、特り其命脈を維持せる此制度を活例として、之を觀察するの、頗る有益なるを云へり。
新字:予も亦た斯人の輩に倣ひ、其国語を仮りて、我武士道を研究するを以て、自から心に快しとするものなり。悲しむべし、外人の東洋に関する知識に欠乏せるの甚しきや。彼の識見該博なること、ジヨージ、ミラー博士の如きを以てして、尚且つ武士道若くは此類の制度は、古代史の邦国、又は現時の東洋に於て、之を認むること能はずと断言せり。さりながら、此の好博士の名著『歴史哲理解』第三版の刊行せられたるは、水師提督ペリーの浦賀に来りて、我朝二百年鎖国の門戸を叩きたると、其年を同じうするより之を見れば、当年のミラー博士が無識も亦た大に恕すべきものあらん乎。此より後十余年我封建制度の将に滅亡せんとして、気息奄々たりし時に当り、カール、マークスは『資本論中にて、社会学及び政治学よりして、封建制度の特質を研究せんとせば、現に日本に於て、特り其命脈を維持せる此制度を活例として、之を観察するの、頗る有益なるを云へり。
書き下し
予も亦た斯人の輩に倣ひ、其国語を借りて、我武士道を研究するを以て、自から心に快しとするものなり。悲しむべし、外人の東洋に関する知識に欠乏せるの甚しきや。彼の識見該博なること、ジョージ・ミラー博士の如きを以てして、なお且つ、武士道若くは此類の制度は、古代史の邦国、又は現時の東洋に於て、之を認むること能はずと断言せり。さりながら、此の好博士の名著『歴史哲理解』第三版の刊行せられたるは、水師提督ペリーの浦賀に来りて、我朝二百年鎖国の門戸を叩きたると、其年を同じうするより之を見れば、当年のミラー博士が無識も亦た大に恕すべきものあらんか。此より後十余年、我封建制度の将に滅亡せんとして、気息奄々たりし時に当り、カール・マルクスは『資本論』中にて、社会学及び政治学よりして、封建制度の特質を研究せんとせば、現に日本に於て、独り其命脈を維持せる此制度を活例として、之を観察するの、すこぶる有益なるを云へり。
現代語訳
私もまたこの人たちに倣って、その国の言葉を借りてわが武士道を研究することを、自分の心に快いことと思います。悲しいのは、外国人の東洋についての知識が甚だしく欠けていることです。あれほど識見の広いジョージ・ミラー博士をもってさえ、武士道あるいはこの種の制度は、古代史の国々や現在の東洋には認められないと断言しました。とはいえ、この善良な博士の名著『歴史哲学概論』第三版が刊行されたのは、ペリー提督が浦賀に来てわが国二百年の鎖国の門を叩いたのと同じ年でしたから、当時のミラー博士の無知も大いに許すべきところがあるでしょう。それから十数年後、わが封建制度がまさに滅びようとして息も絶え絶えであったとき、カール・マルクスは『資本論』の中で、社会学や政治学から封建制度の特質を研究しようとするなら、現に日本においてひとりその命脈を保っているこの制度を生きた例として観察するのが、非常に有益だと述べました。
解説
この章句が説くこと
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