武訓 / 下・第16段
漢高祖の父太公を、項羽虜にせしに、高祖の求め切ならざる故、項羽つひに太公をかへす。明の英宗を、北狄にいけどり行きしを、其の子宣宗、はじめ郕王と稱せしが、父とらはれとなり給ひし後、帝位につきて、其の父を、はるかに尊んで、太皇帝と稱す。宣宗、北狄に父を乞はず。父とらはれとなり給ひして、と、何ともなげなりしかば、北土に英宗をとらへ置きても益なき故、北虜ついに英宗をおくりかへせり。是、高祖、宣宗の心は、不孝によれるか知るべからず。其の計はよし。父を敵生どり行きしを、追ひかけ、父も敵も打亡ぼしたることありとなん。後世の人評して、或はほめ、或はそしる。其の時、父をきらず、只、父のあとを、堅固に領し、兵勢をつよくふるひなば、敵は、おのづから其の威に服し、其の父を生どりて、とぢこめ置きても、益なきことをしりて、其の父を、此方より求めずして、送りかへすべきに、年わかき人は、俄の事にて、其の思慮なく、又、古のふみをみず、高祖、宣宗の行ひしことをしらず。しかれば、武將も、古の記錄を多くよんで、ふるきことを知るべし。文盲にては、古のことをしらず。鑑とすべきやうなし。われひとりの才智をたのみては、必、あやまり多し。よき道をしらざれば、才勇ありて、善を好む人も、まことの理にあたらずして、あやまりおほし。弓をみたらしといひ、太刀をみはかしといふこと、子細あり。
新字:漢高祖の父太公を、項羽虜にせしに、高祖の求め切ならざる故、項羽つひに太公をかへす。明の英宗を、北狄にいけどり行きしを、其の子宣宗、はじめ郕王と称せしが、父とらはれとなり給ひし後、帝位につきて、其の父を、はるかに尊んで、太皇帝と称す。宣宗、北狄に父を乞はず。父とらはれとなり給ひして、と、何ともなげなりしかば、北土に英宗をとらへ置きても益なき故、北虜ついに英宗をおくりかへせり。是、高祖、宣宗の心は、不孝によれるか知るべからず。其の計はよし。父を敵生どり行きしを、追ひかけ、父も敵も打亡ぼしたることありとなん。後世の人評して、或はほめ、或はそしる。其の時、父をきらず、只、父のあとを、堅固に領し、兵勢をつよくふるひなば、敵は、おのづから其の威に服し、其の父を生どりて、とぢこめ置きても、益なきことをしりて、其の父を、此方より求めずして、送りかへすべきに、年わかき人は、俄の事にて、其の思慮なく、又、古のふみをみず、高祖、宣宗の行ひしことをしらず。しかれば、武将も、古の記録を多くよんで、ふるきことを知るべし。文盲にては、古のことをしらず。鑑とすべきやうなし。われひとりの才智をたのみては、必、あやまり多し。よき道をしらざれば、才勇ありて、善を好む人も、まことの理にあたらずして、あやまりおほし。弓をみたらしといひ、太刀をみはかしといふこと、子細あり。
書き下し
漢高祖の父太公を、項羽虜にせしに、高祖の求め切ならざる故、項羽つひに太公をかへす。明の英宗を、北狄にいけどり行きしを、其の子宣宗、はじめ郕王と稱せしが、父とらはれとなり給ひし後、帝位につきて、其の父を、はるかに尊んで、太皇帝と稱す。宣宗、北狄に父を乞はず。父とらはれとなり給ひして、と、何ともなげなりしかば、北土に英宗をとらへ置きても益なき故、北虜ついに英宗をおくりかへせり。是、高祖、宣宗の心は、不孝によれるか知るべからず。其の計はよし。父を敵生どり行きしを、追ひかけ、父も敵も打亡ぼしたることありとなん。後世の人評して、或はほめ、或はそしる。其の時、父をきらず、只、父のあとを、堅固に領し、兵勢をつよくふるひなば、敵は、おのづから其の威に服し、其の父を生どりて、とぢこめ置きても、益なきことをしりて、其の父を、此方より求めずして、送りかへすべきに、年わかき人は、俄の事にて、其の思慮なく、又、古のふみをみず、高祖、宣宗の行ひしことをしらず。しかれば、武將も、古の記錄を多くよんで、ふるきことを知るべし。文盲にては、古のことをしらず。鑑とすべきやうなし。われひとりの才智をたのみては、必、あやまり多し。よき道をしらざれば、才勇ありて、善を好む人も、まことの理にあたらずして、あやまりおほし。弓をみたらしといひ、太刀をみはかしといふこと、子細あり。
現代語訳
漢の高祖の父の太公を項羽が捕虜にしたとき、高祖の求め方が切実でなかったので、項羽はついに太公を返した。明の英宗を北狄が生け捕りにして連れ去ったとき、その子の宣宗は、初め郕王と称していたが、父が捕らわれの身となられたあと帝位につき、その父をはるかに尊んで太皇帝と称した。宣宗は北狄に父を返すよう乞わなかった。父が捕らわれの身となられても、何ともなげな様子であったので、北の地に英宗を捕らえておいても益がないため、北虜はついに英宗を送り返した。これは、高祖・宣宗の心が不孝によるものかどうかは分からない。しかし、その計はよい。父を敵が生け捕りにして行ったのを追いかけ、父も敵も討ち滅ぼしたこともあるという。後世の人は評して、あるいは褒め、あるいはそしる。その時、父を斬らず、ただ父の跡をしっかり領して兵勢を強く振るえば、敵はおのずからその威に服し、その父を生け捕りにして閉じ込めておいても益のないことを知って、こちらから求めずとも送り返すはずなのに、年若い人は急なことで思慮がなく、また古い書物を見ず、高祖・宣宗が行ったことを知らない。それゆえ武将も、古い記録を多く読んで古いことを知るべきである。文盲では古のことを知らず、鑑とするものがない。自分ひとりの才智を頼めば、必ず誤りが多い。よい道を知らなければ、才勇があって善を好む人も、まことの理に当たらず誤りが多い。弓を「みたらし」といい、太刀を「みはかし」というのには、いわれがある。
解説
この章句が説くこと
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『文武訓』武訓下一漢高祖の父太公を、項羽虜にせしに、高祖の求め切ならざる故、項羽つひに太公をかへす。明の英宗を、北狄にいけどり行きしを、其子宣宗、はじめ郎王と称せしが、父とらはれとなり給ひし後、帝位につきて、其父をはるかに尊んで太皇帝と称す。宣宗、北狄に父を乞はず、父とらはれとなり給ひしこと、何ともなげなりしかば、北土に英宗をとらへ置きても益なき故、北虜つひに英宗をおくりかへせり。是、高祖、宣宗の心は、不孝によれるか、知るべからず。其計はよし。父を敵生どり行きしを追ひかけ、父も敵も打亡ぼしたる事ありとなん。後世の人評して、或は褒め或はそしる。其時父をきらず、只父のあとを堅固に領し、兵勢をつよくふるひなば、敵はおのづから其威に服し、其父を生どりてとぢこめ置きても、益なきことを知りて、其父を、此方より求めずして送りかへすべきに、年わかき人は、俄の事にて其思慮なく、又、古のふみを見ず、高祖、宣宗の行ひしことを知らず。
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