武道初心集 / 懈惰二
我が宿所よりの道法と日の長短とを考へ計り。交代の時刻より。少し早めに出候樣に心得べく候。迚も出べき勤番所へ。出からかひを仕り。茶を一服。煙草を一ぷくと申てぶらつき。或は女房子供と。一口づゝの雜談に時を移して。宿を遲く出ては俄に狼狽。行違ふ人の見さかひもなき程道を急き。大汗を流して番所へ馳付。寒中にも扇を遣ひながら。ちと不叶用事有りて遲く罷出候などゝ。利口がましく申すなどは。空氣たる事と可申候。武士の勤番と申すは警衛の義なれば。何樣の義たりといふ共。私用を以て遲參に及ぶべき義は無之候。扨又右の心得を以て。我が身はいつとても早く出勤致すといへ共。相手替りの傍輩の遲く出るを待兼。もゝ尻に成りて大欠を仕り。主君の御舘の內には。しばらくも居る事をいやがり。歸りいそぎを仕るも。近頃見苦しきものに候。初心の武士心得のため仍如件。
新字:我が宿所よりの道法と日の長短とを考へ計り。交代の時刻より。少し早めに出候様に心得べく候。迚も出べき勤番所へ。出からかひを仕り。茶を一服。煙草を一ぷくと申てぶらつき。或は女房子供と。一口づゝの雑談に時を移して。宿を遅く出ては俄に狼狽。行違ふ人の見さかひもなき程道を急き。大汗を流して番所へ馳付。寒中にも扇を遣ひながら。ちと不叶用事有りて遅く罷出候などゝ。利口がましく申すなどは。空気たる事と可申候。武士の勤番と申すは警衛の義なれば。何様の義たりといふ共。私用を以て遅参に及ぶべき義は無之候。扨又右の心得を以て。我が身はいつとても早く出勤致すといへ共。相手替りの傍輩の遅く出るを待兼。もゝ尻に成りて大欠を仕り。主君の御舘の内には。しばらくも居る事をいやがり。帰りいそぎを仕るも。近頃見苦しきものに候。初心の武士心得のため仍如件。
書き下し
我が宿所よりの道法と日の長短とを考へ計り。交代の時刻より。少し早めに出候樣に心得べく候。迚も出べき勤番所へ。出からかひを仕り。茶を一服。煙草を一ぷくと申てぶらつき。或は女房子供と。一口づゝの雜談に時を移して。宿を遲く出ては俄に狼狽。行違ふ人の見さかひもなき程道を急き。大汗を流して番所へ馳付。寒中にも扇を遣ひながら。ちと不叶用事有りて遲く罷出候などゝ。利口がましく申すなどは。空氣たる事と可申候。武士の勤番と申すは警衛の義なれば。何樣の義たりといふ共。私用を以て遲參に及ぶべき義は無之候。扨又右の心得を以て。我が身はいつとても早く出勤致すといへ共。相手替りの傍輩の遲く出るを待兼。もゝ尻に成りて大欠を仕り。主君の御舘の內には。しばらくも居る事をいやがり。歸りいそぎを仕るも。近頃見苦しきものに候。初心の武士心得のため仍如件。
現代語訳
自分の宿所からの道のりと日の長短を考え合わせて、交代の時刻より少し早めに出るように心得るべきです。どうせ出るはずの勤番所へ、出しぶって、茶を一服、煙草を一服と言ってぶらつき、あるいは女房や子供とひと言ずつ雑談して時を過ごし、家を遅く出て急に慌て、行き違う人の見さかいもないほど道を急ぎ、大汗を流して番所へ駆けつけ、寒中にも扇を使いながら、「少し都合の悪い用事があって遅く出ました」などと利口ぶって言うのは、むなしいことと申すべきです。武士の勤番というのは警衛のことですから、どのような事情であっても、私用で遅参に及んでよいはずはありません。さて、この心得で、自分はいつも早く出勤するといっても、交代の相手の同僚が遅く出るのを待ちかねて、もじもじして大あくびをし、主君の屋敷の内に少しの間もいるのをいやがって帰りを急ぐのも、近ごろ見苦しいものです。初心の武士の心得のために、以上のとおりである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武道初心集』懈惰(一)主君を持たる武士。初條にも申述る如く。今日在て。明日を知らぬ身命に候得ば。日毎にけふを奉公のいたし納めとさへ覺悟仕れば。物に退屈もなく。諸事を投やりにも不仕。何事も皆其日拂ひに仕るを以て。不念失念と申義も無之道理に候。然るに行末永き奉公と存ずるから事起りて。物に退屈仕り。それより心もゆるみ氣も怠り。事の緩やかなる義は申すに及ばず。たとひきはきはと相談を遂て。埒を明ずしては叶はざる事も。それは明日の義。是は重ねての事と。打やり投やりに仕り。或は同役仲間にても。彼方へはね。此方へぬり。誰ひとり身に引受て世話のやき手もなければ。諸事はいやが上にかさなりつかへて。不埒なる事のみ多く成行候は。是皆行末の月日を。頼みに存ずるより起る過ちにて。尤恐れ愼しむべき事に候。たとへば月幾日と。番日の定れる勤めならば。
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『武道初心集』出家士(二)いまだ年若き者も妻子を持ち。朝寢晝寢を業と致し。士の常法たる。兵法をさへ學び務めず候からは。ましてや手遠なる。軍法戰法の事は。思ひがけもなくて。一日ぬらりに年月を送る內に。そろ〳〵髭白毛も生ひ出。額口も禿上りて。何樣尤らしき年齡に見ゆるを以て。役ぬけの撰擧に預り。譬へば使番などになり候ても。早當座から行あたり。同役仲間の介抱を以て。何とか相勤め罷在內に。常に無之遠國使など有之時は。俄に胸をつき。旅行の支度にとりまぜて。先輩の口傳を受け。古來の控覺書など借用して。漸々と其塲を勤め候は。幸にして免れたると申すものにて。本道の事とは申されず候。子細を申に。武家の諸役儀大形定り有ものなれば。其身無役の內。連々心にかけ。役義馴れたる功者に參會の序毎には。無益の雜談を相止め。向後の心付にも可罷成と。思ひ寄たる事共をば。幾度も問尋ねて。委細に聞覺え。或は古き控覺書。繪圖等までも借りあつめ寫し置き。勤方の大筋を呑込候得ば。何時何役に成り候ても。務り易き道理に候。其上先輩同役に便りて事を習ひ。介抱に預りて事を濟すも。常式の時の儀に候。萬一世の變に至り候ては。人の介抱引廻しに預る事はならざる事に候間。善くも惡くも我獨分別にて。埒を明るより外は無之候。
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『武道初心集』陪從奉公を仕る武士。主君御旅行の御供を致し。泊りへ着候に於ては。其所の者をかたらひ。近所に見ゆる。山林寺宮などを目當にして。東西を問尋ね御本陣より何方に當りて。いか樣の廣き塲所有之。道筋は箇樣とまでをも。日の暮前に何となく見分致し。篤と心得罷在義肝要に候。子細は。夜中急火などの節。主君俄に御立退被成刻。御先に立て。御案内可申上が爲に候。扨又其身歩行にて御供を勤る節は。上り坂にては御先に立。下り坂にては御跡に立心得などは。尤輕き事ながらも。奉公の一つに候。右の如くの義を以て。手懸りと致し思案をめぐらし。迚も奉公を仕る身と罷成からは何がな一奉公もがなと。朝暮油斷なく心掛勵み候は。武士の本意に候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』絶交奉公仕る武士。傍輩の中に何ぞ子細有て。不通義絶のものも可有之候。然るに主君の仰を以て。其者と同役に罷成候節は。早速其者の方へ罷越。我等義今度貴殿と同役に仰付られ御請に及び候。其許とは日比義絶の義に候得共。既に同役と仰付られ候上は。向後互ひに隔意なく申合せ。御用の相滯り不申候樣に無之てはと存ずる事に候。其許は當役に於て先輩の義にも候へば。諸事御指南頼入存候。但明日にも貴殿我等の內他役に轉じ。同僚を離れ候はゞ。又義絶に及び可申候。それまでの義は。隔意なく申合せ候外無之段申理り。互に心を合せて相勤るは。武士の正義に候。況や日比何の子細無之傍輩と。同役の義ならば。尙更隔意なく申合せずしては叶はず候。然るをやゝもすれば權を爭ひ。或は新役にて諸事不案內なるには。氣をつけ心を添て。首尾好勤めさせべきといふ。おとなしき心はなく。仕落有之を見ては嬉しがり申すなどは。むさきともきたなさとも。兎角の批判に及ばず候。左樣なる心立の武士は。自然の變に臨みては。必定奪ひ首。味方討等。卑怯なる働きをも仕兼ず候。尤耻慎しむべき事に候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』言辭(一)奉公仕る武士。主君より大切の仕もの。放討など仰付らるゝ時は。御家中人多き中に。今度の御用を私へ仰付らるゝ段。武士の冥理に相叶ひ。忝次第に存ずる旨。成程潔よく御請を申上る心得尤に候。然るを生溫き御請に及ぶは。以ての外宜しからず候。子細を申すに。內心には勇氣を勵し。天晴仕すまして御目に懸べきと存じ詰候ても。勝負は時の運によれば討損じ。剩へ返り討に逢事も有之候。何れも後日に至り。諸傍輩の中において善惡の批判有べき事に候。其首尾好ければ。いかさま御請の砌より。仕り乘まじき氣色に見えたるが。能は仕濟したりと申して。もし又仕損じて返り討に逢候時は。右の御請の次第を申出て。中々仕り損ずる樣なる者にては無かりしが。如何致して討損じけるぞと申して。各悔みて惜み申候。扨又少しにても鈍き御請を仕り候時は。たとひ好首尾に致し濟し候ても。
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『武道初心集』言辭(二)偏に時の運のよき也と申して。誰も左のみ譽不申候。もしも致し損じたる時は。右御請の砌から。何とやらん覺束なく思はれしが。果して仕損ひたりと申して。諸人謗るものにて候。爰を以て何分にも御請をば。潔よくとは申にて候。總じて武士をたしなむ者は。假初にも。仕形の負を取らぬ樣にとの心懸第一に候。譬ば人に無心合力などを云懸られ候ても。是は成る事成らぬ事をば。幾重にも分別致し。成まじきと思ふ事ならば。それは格別。既に得心致す程ならば。如何にも潔よく請合候てこそ。先の者も別て過分共可存候を。請口鈍く。不宵々々の樣子に見ゆる時は。向の者の心に成ては。過分氣も薄く。何とぞ可成ならば。此仁へばかりは無心を云ぬ樣に致し度事かなと。無念にも。口惜くも。不存しては不叶候。如此なるを。意地のきたなき共申し。切離れのなき共申し。損の上の損共申候。初心の武士心得のため仍如件。
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