武道便蒙録 / 卷之一・勢いに驕らず、讒言と色を遠ざける
○權勢をとり、又は君邊に仕ふる、近習のともがら、我身の程をも不知して、勢に乘ずる者、古今多し、たとひ、勢ひに乘るとも、我が身をかへり見て、心をひそめ、ほこることなかれ、古人も人世を、弓を張るにたとふ、滿をすぐれば、折るゝといへり、古語に、瓜熟蒂落、福過災生ともあり、又歌に、おもへたゞ、滿ればやがて、かく月の、いざよふそらや、人の世の中、とよめり、○君侯たる人の、讒言を云ふ人を親みて、忠義ある人を遠くるときは、其國家たちまち滅亡するに至るなり、讒言者と云は、善を惡きに云かへ、黑を白にいひなすものゆへ、讒言云人を親むときは、是非善惡顚倒するによりて、忽ち滅亡する也、さて又男色女色にかぎらず、色を近づけ容貌のうるわしきものを、寵愛し好み、賢德ある人をば、うとみ遠ざくるなり、色は我が形ちをなぐさめ、賢者は我心を養ふものなり、故に色を近くるは、形の安樂を好む心より起るなり、賢を遠くるは、心を養ふことを求めぬ處より起るなり、故に形を安樂にして、心を養ふことを求めざる時は、愚に惛となり、愚惛なるときは、終に讒言をも聞入れ、國家をほろぼすに至る、黃石公曰、親讒遠忠者亡、近色遠賢者惛なり、
新字:○権勢をとり、又は君辺に仕ふる、近習のともがら、我身の程をも不知して、勢に乗ずる者、古今多し、たとひ、勢ひに乗るとも、我が身をかへり見て、心をひそめ、ほこることなかれ、古人も人世を、弓を張るにたとふ、満をすぐれば、折るゝといへり、古語に、瓜熟蒂落、福過災生ともあり、又歌に、おもへたゞ、満ればやがて、かく月の、いざよふそらや、人の世の中、とよめり、○君侯たる人の、讒言を云ふ人を親みて、忠義ある人を遠くるときは、其国家たちまち滅亡するに至るなり、讒言者と云は、善を悪きに云かへ、黒を白にいひなすものゆへ、讒言云人を親むときは、是非善悪顛倒するによりて、忽ち滅亡する也、さて又男色女色にかぎらず、色を近づけ容貌のうるわしきものを、寵愛し好み、賢徳ある人をば、うとみ遠ざくるなり、色は我が形ちをなぐさめ、賢者は我心を養ふものなり、故に色を近くるは、形の安楽を好む心より起るなり、賢を遠くるは、心を養ふことを求めぬ処より起るなり、故に形を安楽にして、心を養ふことを求めざる時は、愚に惛となり、愚惛なるときは、終に讒言をも聞入れ、国家をほろぼすに至る、黄石公曰、親讒遠忠者亡、近色遠賢者惛なり、
書き下し
○權勢をとり、又は君邊に仕ふる、近習のともがら、我身の程をも不知して、勢に乘ずる者、古今多し、たとひ、勢ひに乘るとも、我が身をかへり見て、心をひそめ、ほこることなかれ、古人も人世を、弓を張るにたとふ、滿をすぐれば、折るゝといへり、古語に、瓜熟蒂落、福過災生ともあり、又歌に、おもへたゞ、滿ればやがて、かく月の、いざよふそらや、人の世の中、とよめり、○君侯たる人の、讒言を云ふ人を親みて、忠義ある人を遠くるときは、其國家たちまち滅亡するに至るなり、讒言者と云は、善を惡きに云かへ、黑を白にいひなすものゆへ、讒言云人を親むときは、是非善惡顚倒するによりて、忽ち滅亡する也、さて又男色女色にかぎらず、色を近づけ容貌のうるわしきものを、寵愛し好み、賢德ある人をば、うとみ遠ざくるなり、色は我が形ちをなぐさめ、賢者は我心を養ふものなり、故に色を近くるは、形の安樂を好む心より起るなり、賢を遠くるは、心を養ふことを求めぬ處より起るなり、故に形を安樂にして、心を養ふことを求めざる時は、愚に惛となり、愚惛なるときは、終に讒言をも聞入れ、國家をほろぼすに至る、黃石公曰、親讒遠忠者亡、近色遠賢者惛なり、
現代語訳
権勢を握ったり、主君の側に仕えたりする近習の者の中には、自分の身の程を知らずに勢いに乗る者が、昔も今も多くいます。たとえ勢いに乗るとしても、自分を省みて心をひそめ、誇ってはいけません。古人も人の世を弓を張ることにたとえ、満ちるところを過ぎれば折れると言いました。古語に「瓜熟して蒂落つ」「福過ぐれば災生ず」ともあります。また歌に「思えただ、満ちればやがて欠く月の、いざよう空や、人の世の中」とよまれています。○君侯たる人が、讒言を言う人に親しみ、忠義ある人を遠ざけるときは、その国家はたちまち滅亡するに至ります。讒言者とは、善を悪く言い替え、黒を白と言いなすものですから、讒言を言う人に親しめば、是非善悪が転倒するため、たちまち滅亡するのです。また、男色女色に限らず、色を近づけ、容貌の美しい者を寵愛し好んで、賢徳ある人をうとみ遠ざけます。色は我が形を慰め、賢者は我が心を養うものです。ですから色を近づけるのは形の安楽を好む心から起こり、賢を遠ざけるのは心を養うことを求めないところから起こります。そこで形を安楽にして心を養うことを求めないときは、愚かに昏くなり、愚昏になれば、ついに讒言をも聞き入れ、国家を滅ぼすに至ります。黄石公は「讒を親しみ忠を遠ざける者は亡び、色に近づき賢を遠ざける者は昏し」と言っています。
解説

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