墨子 / 魯問
魯祝以一豚祭,而求百福於鬼神。子墨子聞之,曰:「是不可。今施人薄而望人厚,則人唯恐其有賜於己也。今以一豚祭而求百福於鬼神,唯恐其以牛羊祀也。古者聖王事鬼神,祭而已矣。今以豚祭而求百福,則其富不如其貧也。」
書き下し
魯の祝、一豚を以て祭りて、百福を鬼神に求む。子墨子、之を聞きて曰く、「是れ不可なり。今、人に施すこと薄くして人に望むこと厚ければ、則ち人、唯だ其の己に賜うこと有らんことを恐るるのみ。今、一豚を以て祭りて百福を鬼神に求むれば、唯だ其の牛羊を以て祀らんことを恐るるのみ。古者の聖王、鬼神に事うるは、祭るのみ。今、豚を以て祭りて百福を求むれば、則ち其の富むは其の貧しきに如かざるなり」と。
現代語訳
魯の祝官が豚一頭を供えて、百の福を鬼神に求めた。墨子がこれを聞いて言った。「それはいけない。いま人に施すことが薄いのに人に望むことが厚ければ、相手は自分が何かをくれるのではないかと身構えるだけだ。いま豚一頭を供えて百の福を鬼神に求めれば、鬼神は牛や羊で祀られるのを恐れるだけだ。昔の聖王が鬼神に仕えたのは、ただ祭るだけだった。いま豚を供えて百の福を求めるなら、豊かであるより貧しいほうがましだ」。
解説
出すものと求めるものの釣り合いを問います。少し出して多くを求められれば、相手は身構える。鬼神の話ですが、人づきあいの話としても読めます。一升の粟を数えたときと同じで、墨子は必ず量を数える。祈りも取引として数えられてしまうところに、この学派の一貫性があります。求める側が何を出したかは、相手のほうがよく覚えています。
この章句が説くこと
釣合施し要求祭祀量
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