墨子 / 耕柱
子墨子游荆耕柱子於楚,二三子過之,食之三升,客之不厚。二三子復於子墨子曰:「耕柱子處楚無益矣,二三子過之,食之三升,客之不厚。」子墨子曰:「未可知也。」母㡬何,而遺十金於子墨子,曰:「後生不敢死,有十金於此,願夫子之用也。」子墨子曰:「果未可知也。」
新字:子墨子游荆耕柱子於楚,二三子過之,食之三升,客之不厚。二三子復於子墨子曰:「耕柱子処楚無益矣,二三子過之,食之三升,客之不厚。」子墨子曰:「未可知也。」母㡬何,而遺十金於子墨子,曰:「後生不敢死,有十金於此,願夫子之用也。」子墨子曰:「果未可知也。」
書き下し
子墨子、耕柱子を荆の楚に游ばしむ。二三子、之を過ぎるに、之に食するに三升を以てし、之を客するに厚からず。二三子、子墨子に復して曰く、「耕柱子、楚に處るも益無し。二三子、之を過ぐるに、之に食するに三升を以てし、之を客するに厚からず」と。子墨子曰く、「未だ知る可からざるなり」と。㡬何も母くして、十金を子墨子に遺りて曰く、「後生、敢えて死せず。十金、此に有り、願わくは夫子の用いんことを」と。子墨子曰く、「果たして未だ知る可からざるなり」と。
現代語訳
墨子が耕柱子を楚に送り出した。門人たちが立ち寄ると、出された食事は三升で、もてなしは厚くなかった。門人たちが墨子に報告した。「耕柱子は楚にいても役に立ちません。我々が立ち寄っても、三升の飯を出すだけで、もてなしが厚くありません」。墨子が言った。「まだ分からない」。いくらもたたないうちに、耕柱子から十金が墨子に届いた。「未熟者ですが、まだ死んではおりません。十金がここにあります。どうか先生にお使いいただきたい」。墨子が言った。「やはりまだ分からなかったのだ」。
解説
待遇が悪いという門人の報告に、墨子は判断を保留します。そのあと十金が届いて、耕柱子は自分の分を削って本部に送っていたことが分かる。「未可知也」——まだ分からない、という一言が二度出てきます。人の評価を、目に見えた一場面で決めない。判断を保留する力そのものを描いた話です。伝え聞いた不満は、たいてい事情の半分しか運んできません。

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