墨子 / 天志中
且吾所以知天愛民之厚者,不止此而足矣。曰殺不辜者,天予不祥。不辜者誰也?曰人也。予之不祥者誰也?曰天也。若天不愛民之厚,天胡説人殺不辜,而天予之不祥哉?此吾以知天之愛民之厚也。
書き下し
且つ吾が天の民を愛するの厚きを知る所以の者は、此に止まらずして足れり。曰く、不辜を殺す者は、天、不祥を予う。不辜なる者は誰ぞや。曰く、人なり。之に不祥を予うる者は誰ぞや。曰く、天なり。若し天、民を愛するの厚からずんば、天、胡ぞ人の不辜を殺すを説びて、天、之に不祥を予えんや。此れ吾が以て天の民を愛するの厚きを知るなり。
現代語訳
私が天の民への愛の厚さを知る理由は、これだけにとどまらない。罪の無い者を殺す者には、天が不祥を与える。罪の無い者とは誰か。人である。それに不祥を与えるのは誰か。天である。もし天が民を厚く愛していないなら、なぜ天は人が罪の無い者を殺したときに、それに不祥を与えるのか。これが、私が天の民への愛の厚さを知る理由である。
解説
同じ論証が天志上篇にもありましたが、こちらのほうが簡潔です。誰が被害者で誰が罰を与えるか、を二問二答で確定させてから結論に入る。短い問答を重ねて論点を固定する書き方は、墨経の定義群にもつながる技法で、墨家が論理の学派と呼ばれる理由の一端がここにあります。論点を先に確定させておけば、話が途中で別の話にすり替わることを防げます。
この章句が説くこと
論証問答簡潔天被害
関連する章句
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『墨子』尚同中夫れ既に天子に尚同するも、未だ天に尚同せざる者は、則ち天菑、將に猶お未だ止まざらんとするなり。故に若し天、寒熱を降すこと節ならず、霜雪雨露、時ならず、五榖熟せず六畜遂げず、疾菑戾疫、飄風苦雨、荐臻して至る者は、此れ天の罰を降すなり。將に以て下人の天に尚同せざるを罰せんとするなり。
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『墨子』尚同上天下の百姓、皆な天に上同するも、一にして天に上同せざれば、則ち菑、猶お未だ去らざるなり。今、若し天、飄風苦雨、湊湊として至る者は、此れ天の百姓の天に上同せざるを罰する所以の者なり。
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論語・陽貨篇子曰く、「予言うこと無からんと欲す。」子貢曰く、「子如し言わずんば、則ち小子何をか述べん。」子曰く、「天何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天何をか言うや。」
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言志四録・南洲手抄生物は皆死を畏る。人は其れ霊なり、当に死を畏るるの中より死を畏れざるの理を揀び出すべし。吾れ思ふ、我が身は天物なり。死生の権は天に在り、当に之を順受すべし。我れの生るるや自然にして生る、生るる時未だ嘗て喜ぶことを知らず。則ち我の死するや応に亦自然にして死し、死する時未だ嘗て悲むことを知らざるべし。天之を生みて、天之を死す、一に天に聴さんのみ、吾れ何ぞ畏れん。吾が性は即ち天なり、躯殻は則ち天を蔵むるの室なり。精気の物と為るや、天此の室に寓す。遊魂の変を為すや、天此の室を離る。死の後は即ち生の前なり、生の前は即ち死の後なり。而して吾が性の性たる所以は、恒に死生の外に在り、吾れ何ぞ畏れん。夫れ昼夜は一理なり、幽明は一理なり。始めを原ねて終りに反らば、死生の理を知る、何ぞ其の易簡にして明白なるや。吾人は当に此の理を以て自省すべし。
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『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。故に曰く、天に法るに若くは莫し、と。天の行いは廣くして私無く、其の施しは厚くして徳とせず、其の明るきは久しくして衰えず。故に聖王は之に法る。既に天を以て法と為さば、動作有為には、必ず天に度り、天の欲する所は則ち之を為し、天の欲せざる所は則ち止む。
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『墨子』天志上然らば則ち禹湯文武の其の賞を得たるは何を以てなるや。子墨子言いて曰く、其の事、上は天を尊び、中は鬼神に事え、下は人を愛す。故に天意に曰く、「此れ之れ我が愛する所、兼ねて之を愛し、我が利する所、兼ねて之を利す。人を愛する者、此れ博しと為し、人を利する者、此れ厚しと為す」と。故に貴きこと天子と為し、富は天下を有ち、萬世の子孫に業せしむ。傳えて其の善を稱し、方く天下に施し、今に至るまで之を稱し、之を聖王と謂う。然らば則ち桀紂幽厲の其の罰を得たるは何を以てなるや。子墨子言いて曰く、其の事、上は天を詬り、中は鬼を誣い、下は人を賤しむ。故に天意に曰く、「此れ之れ我が愛する所、别ちて之を惡み、我が利する所、交ごも之を賊う。人を惡む者、此れ之を博しと為し、人を賊う者、此れ之を厚しと為す」と。故に其の夀を終うるを得ず、其の世を殁えず、今に至るまで之を毁り、之を暴王と謂う。