墨子 / 非攻下
是故子墨子曰:今且天下之王公大人士君子,中情將欲求興天下之利,除天下之害,當若繁為攻伐,此實天下之巨害也。今欲為仁義,求為上士,上欲中聖王之道,下欲中國家百姓之利,故當若非攻之為説,而將不可不察者此也。
新字:是故子墨子曰:今且天下之王公大人士君子,中情将欲求興天下之利,除天下之害,当若繁為攻伐,此実天下之巨害也。今欲為仁義,求為上士,上欲中聖王之道,下欲中国家百姓之利,故当若非攻之為説,而将不可不察者此也。
書き下し
是の故に子墨子曰く、今、且つ天下の王公大人・士君子、中情、將に天下の利を興し、天下の害を除かんことを求め欲せば、當に攻伐を繁く為すが若きは、此れ實に天下の巨害なり。今、仁義を為し、上士たるを求めんと欲し、上は聖王の道に中らんと欲し、下は國家百姓の利に中らんと欲せば、故に當に非攻の説の若きにして、將に察せざる可からざる者、此れなり。
現代語訳
だから墨子が言った。いま天下の王公大人や士君子が、心底から天下の利を起こし天下の害を除こうと望むなら、攻め伐つことを繁く行うのは、実に天下の大害である。いま仁義を行い、上等の士であろうとし、上は聖王の道に適い、下は国家と百姓の利に適おうとするなら、非攻という説について、見きわめないわけにいかないものは、これである。
解説
非攻三篇の結びです。各篇の締めが同じ定型をとるのが墨子学派の書き方で、「中情將欲〜、當若〜之不可不察」という形が繰り返されます。定型があることで、どの篇も同じ判定基準(天下の利を興し害を除く)に照らして書かれていることが確認できます。主張ごとに基準が変わらないという一貫性が、この書の信頼性を支えています。
この章句が説くこと
定型一貫性基準非攻まとめ
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論語・郷党篇席正しからざれば坐せず。
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『墨子』尚賢上是の故に古者、聖王の政を為すや言いて曰く、「義ならざれば富まさず、義ならざれば貴くせず、義ならざれば親しまず、義ならざれば近づけず」と。是を以て國の富貴の人、之を聞きて、皆な退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は富貴なり。今、上、義を舉ぐるに貧賤を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。親しき者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は親なり。今、上、義を舉ぐるに親疎を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。近き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は近なり。今、上、義を舉ぐるに近を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我れ逺きを以て恃む無しと為す。今、上、義を舉ぐるに逺きを辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺鄙郊外の臣、門庭の庶子、國中の衆、四鄙の氓人に逮び至るまで、之を聞きて皆な競いて義を為す。
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『墨子』法儀子墨子曰く、天下の事を從むる者は、以て法儀無かる可からず。法儀無くして其の事能く成る者は、有ること無し。士の將相為る者に至ると雖も皆な法有り、百工の事を從むる者に至ると雖も亦た皆な法有り。百工は方を為すに矩を以てし、圜を為すに規を以てし、直きは繩を以てし、正しきは懸を以てす。巧工も不巧工も無く、皆な此の四者を以て法と為す。巧なる者は能く之に中り、不巧なる者は中つる能わずと雖も、放依して以て事を從めば、猶お已に逾えたり。故に百工の事を從むるや、皆な法度有り。今、大なる者は天下を治め、其の次は大國を治むるに、而も法度無し。此れ百工の辯なるに若かざるなり。
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『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。當に皆な其の父母に法らば奚若ん。天下の父母為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の父母に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の學に法らば奚若ん。天下の學を為す者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の學に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の君に法らば奚若ん。天下の君為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の君に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。故に父母・學・君の三者は、以て治法と為す可き莫し。