墨子 / 兼愛下
然即之效孝子者,果不得已乎?毋先從事愛利人之親者與?意以天下之孝子為偶而不足以為正乎?姑嘗本原之先王之所書《大雅》之所道曰:「無言而不讐,無徳而不報。投我以桃,報之以李。」即此言愛人者必見愛也,而惡人者必見惡也。不識天下之士所以皆聞兼而非之者,其故何也?
新字:然即之効孝子者,果不得已乎?毋先従事愛利人之親者与?意以天下之孝子為偶而不足以為正乎?姑嘗本原之先王之所書《大雅》之所道曰:「無言而不讐,無徳而不報。投我以桃,報之以李。」即此言愛人者必見愛也,而悪人者必見悪也。不識天下之士所以皆聞兼而非之者,其故何也?
書き下し
然らば即ち之の孝子に效う者は、果たして已むを得ざるか。先ず人の親を愛し利するに事に從うこと毋からんとする者か。意うに天下の孝子を以て偶と為して以て正と為すに足らざるか。姑く嘗みに之を本原せん、先王の書、大雅の道う所に曰く、「言いて讐いられざる無く、徳ありて報いられざる無し。我に投ずるに桃を以てすれば、之に報ゆるに李を以てす」と。即ち此れ人を愛する者は必ず愛せられ、而して人を惡む者は必ず惡まるるを言うなり。識らず、天下の士の皆な兼を聞きて之を非とする所以の者は、其の故、何ぞや。
現代語訳
とすれば、この孝子に倣う者は、やむを得ずそうするのだろうか。まず人の親を愛し利することから始めずに済ませたいのだろうか。それとも天下の孝子を例外扱いして基準にならないと言うのだろうか。しばらく根本から考えてみよう。先王の書『大雅』はこう語る。「言葉で返されないものは無く、徳で報いられないものは無い。私に桃を投げてくれれば、李で報いる」。これは、人を愛する者は必ず愛され、人を憎む者は必ず憎まれる、ということを言っている。分からないのは、天下の士がみな兼を聞いてそれを否定するのは、いったいなぜなのか、ということである。
解説
「投我以桃、報之以李」——桃を投げれば李が返る。『詩経』のこの一句は、日本でも「投桃報李」として知られます。墨子はこれを、返報の法則を示す証拠として引きます。この篇の全体が、兼愛を無償の献身ではなく、返ってくることを見込んだ合理的な選択として説明しようとしている。損得の計算のうえに愛を置くという姿勢が、儒家からの批判を招いた点でもあります。
この章句が説くこと
返報投桃報李合理先に出す詩経
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