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墨子 / 兼愛下

然而天下之士非兼者之言也,猶未止也,曰:兼即仁矣,義矣。雖然,豈可為哉?吾譬兼之不可為也,猶挈泰山以超江河也。故兼者,直願之也,夫豈可為之物哉?子墨子曰:夫挈泰山以超江河,自古及今,生民而來未嘗有也。今若夫兼相愛、交相利,此自先聖六王者親行之。何知先聖六王之親行之也?子墨子曰:吾非與之並世同時,親聞其聲,見其色也。以其所書於竹帛,鏤于金石,琢於槃盂,傳遺後世子孫者知之。

新字:然而天下之士非兼者之言也,猶未止也,曰:兼即仁矣,義矣。雖然,豈可為哉?吾譬兼之不可為也,猶挈泰山以超江河也。故兼者,直願之也,夫豈可為之物哉?子墨子曰:夫挈泰山以超江河,自古及今,生民而来未嘗有也。今若夫兼相愛、交相利,此自先聖六王者親行之。何知先聖六王之親行之也?子墨子曰:吾非与之並世同時,親聞其声,見其色也。以其所書於竹帛,鏤于金石,琢於槃盂,伝遺後世子孫者知之。

書き下し

然り而して天下の士の兼を非とする者の言や、猶お未だ止まざるなり。曰く、兼は即ち仁なり、義なり。然りと雖も、豈に為す可けんや。吾れ兼の為す可からざるを譬うるに、猶お泰山を挈げて以て江河を超ゆるがごときなり、と。故に兼なる者は、直だ之を願うのみ。夫れ豈に為す可きの物ならんや。子墨子曰く、夫れ泰山を挈げて以て江河を超ゆるは、古より今に及ぶまで、生民ありてより來た未だ嘗て有らざるなり。今、夫の兼ねて相い愛し、交ごも相い利するが若きは、此れ先聖の六王より、親ら之を行えり。何ぞ先聖の六王の親ら之を行いしを知るや。子墨子曰く、吾れ之と世を並べ時を同じくして、親ら其の聲を聞き、其の色を見しに非ざるなり。其の竹帛に書し、金石に鏤め、槃盂に琢み、後世の子孫に傳え遺す所を以て之を知るなり。

現代語訳

ところが天下の士で兼を否定する者の言葉はまだやまない。「兼は仁であり義である。しかし、はたして実行できるものか。私が兼の実行できなさをたとえるなら、泰山を担いで長江や黄河を跳び越えるようなものだ。だから兼とは、ただそう願うだけのもので、実行できるものではない」。墨子が言った。泰山を担いで長江や黄河を跳び越えることは、昔から今まで、人が生まれてこのかた一度も無かった。いま兼ねて互いに愛し交わって互いに利することは、先の聖なる六人の王が自ら実行した。なぜ六王が自ら実行したと分かるのか。墨子が言った。私は彼らと同じ時代に生き、自ら声を聞き、姿を見たわけではない。彼らが竹簡と絹布に書き、金石に刻み、盤や盂に彫って後世の子孫に伝え残したものによって、それを知るのだ。

解説

「吾非與之並世同時、親聞其聲、見其色也」——私はその場にいたわけではない、と証拠の限界を先に自分から述べます。そのうえで、では何によって知るのかを示す。竹簡、金石、器物の銘。過去の主張に依拠するときの手続きを明示しているわけで、これは非命篇の「三表」の一つ目にあたります。根拠の出どころを先に開示する、という議論の作法です。

この章句が説くこと

証拠根拠伝承手続き三表

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