墨子 / 兼愛下
兼士之言不然,行亦不然,曰:「吾聞為髙士於天下者,必為其友之身若為其身,為其友之親若為其親,然後可以為髙士於天下。」是故退睹其友,饑則食之,寒則衣之,疾病侍養之,死喪葬埋之。兼士之言若此,行若此。若之二者,言相非而行相反與?常使若二士者,言必信,行必果,使言行之合,猶合符節也,無言而不行也。
新字:兼士之言不然,行亦不然,曰:「吾聞為高士於天下者,必為其友之身若為其身,為其友之親若為其親,然後可以為高士於天下。」是故退睹其友,饑則食之,寒則衣之,疾病侍養之,死喪葬埋之。兼士之言若此,行若此。若之二者,言相非而行相反与?常使若二士者,言必信,行必果,使言行之合,猶合符節也,無言而不行也。
書き下し
兼士の言は然らず、行いも亦た然らず。曰く、「吾れ聞く、天下に髙士為る者は、必ず其の友の身を為むること其の身を為むるが若くし、其の友の親を為むること其の親を為むるが若くして、然る後に以て天下に髙士為る可し」と。是の故に退きて其の友を睹るに、饑うれば則ち之に食わしめ、寒ければ則ち之に衣せしめ、疾病あれば之を侍養し、死喪あれば之を葬埋す。兼士の言は此くの若く、行いも此くの若し。若の二者は、言、相い非として行い相い反するか。常に若の二士をして、言は必ず信、行いは必ず果ならしめ、言行の合すること、猶お符節を合するがごとくならしめば、言いて行わざる無きなり。
現代語訳
兼を執る士の言葉はそうではなく、行いもそうではない。こう言う。「私はこう聞いている。天下で高い士であろうとする者は、必ず友の身を自分の身のように扱い、友の親を自分の親のように扱い、そうしてはじめて天下の高士でありうる」。だから退いて友を見れば、飢えていれば食べさせ、寒ければ着せ、病めば世話をし、死ねば葬る。兼を執る士の言葉はこうであり、行いもこうである。この二人は、言葉が互いに相反し行いも相反しているのではないか。この二人の士に、言葉は必ず信のあるものとし、行いは必ず果たすものとし、言葉と行いが割り符を合わせるようにぴたりと合うようにさせれば、言って行わないことは無い。
解説
別を執る士とまったく同じ四項目を、肯定形で並べます。飢えれば食べさせ、寒ければ着せ、病めば世話し、死ねば葬る。同じ項目を反転させるので、主義の違いがそのまま行動の違いとして見えるようになっています。そして「言必信、行必果」——言葉と行いが割り符のように合う、という条件を両者に等しく課す。主義を語るなら、それを実行する前提で比べようという公平な設定です。
この章句が説くこと
言行一致兼対比割り符実行
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