墨子 / 三辯
程繁曰:「子曰『聖王無樂』,此亦樂已,若之何其謂聖王無樂也?」子墨子曰:「聖王之命也多寡之。食之利也,以知饑而食之者,智也,因為無知矣。今聖有樂而少,此亦無也。」
新字:程繁曰:「子曰『聖王無楽』,此亦楽已,若之何其謂聖王無楽也?」子墨子曰:「聖王之命也多寡之。食之利也,以知饑而食之者,智也,因為無知矣。今聖有楽而少,此亦無也。」
書き下し
程繁曰く、「子は『聖王に樂無し』と曰う。此れも亦た樂のみ。若之何ぞ其れ聖王に樂無しと謂うや」と。子墨子曰く、「聖王の命や、之を多寡す。食の利や、饑を知りて之を食らう者は智なるを以て、因りて無知と為すなり。今、聖に樂有れども少なし。此れ亦た無きなり」と。
現代語訳
程繁が言った。「先生は『聖王には楽が無かった』と言われる。しかしいま挙げられたものもやはり楽ではありませんか。どうして聖王に楽が無かったと言えるのですか」。墨子が言った。「聖王の定めは、それを多くしたり少なくしたりするものだ。食の利でいえば、飢えを知って食べる者は智だから、それによって知が無いのと同じになる。いま聖人に楽はあるが少ない。これもまた無いのと同じことだ」。
解説
程繁の反論はもっともで、聖王も楽を作っていたなら「楽が無い」とは言えないはずです。墨子の答えは、有無ではなく量の問題だと切り返すもの。飢えを知って食べる者は考える必要がない、それは考えが無いのと同じだ、という譬えを挟みます。原文は伝写のあいだに乱れており読み下しの定まらない箇所ですが、主張の骨は明確です——最小限まで削れば、あるとは呼ばない。禁止ではなく規模の制御である、という墨子の一貫した立場が短く出ています。
この章句が説くこと
程度最小限量節有無
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易経・彖伝「節(せつ)は亨(とお)る」。剛柔分かれて剛は中を得たり。「苦節(くせつ)は貞(てい)にすべからず」とは、其の道窮(きわ)まればなり。説(よろこ)びて以て險(けん)を行き、位に當(あ)たりて以て節し、中正にして以て通ず。天地節して四時(しじ)成る。節するに制度を以てすれば、財を傷(そこな)わず、民を害せず。
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