牧民忠告 / 宣化
或問:「遠方獠民,巢居溪洞,猛不能讋,寛不能懷,喜則人,怒則獸,欲宣朝廷德澤,若之何而可?」餘曰:「物之凶狠,無虎狼若也,然使之左右前後,惟吾之聽者,得其制之之術也。夫克剛莫若柔,治繁莫如簡。且彼之所以反側不恆者,亦必有由矣。或貪其財,或蹙其境,或俘其子女,或蔑其官屬,以致蟻結蜂屯,肆其酷毒。苟安之而不擾,外之而無所事,雖欲忿然,無自而發。政使或爾,但嚴守己界,恬不與校,久而彼自馴伏矣。況彼兵一動,守土者非有上命,坐視而不敢前,比許追襲,則已雉兔逃而禽鳥散矣。由是而論,安靜不競者為上,恬無所求者次之,邀功生事,妄開邊釁,斯為下矣。」官於遠方者,尚監於茲。
新字:或問:「遠方獠民,巣居渓洞,猛不能讋,寛不能懐,喜則人,怒則獣,欲宣朝廷徳沢,若之何而可?」余曰:「物之凶狠,無虎狼若也,然使之左右前後,惟吾之聴者,得其制之之術也。夫克剛莫若柔,治繁莫如簡。且彼之所以反側不恒者,亦必有由矣。或貪其財,或蹙其境,或俘其子女,或蔑其官属,以致蟻結蜂屯,肆其酷毒。苟安之而不擾,外之而無所事,雖欲忿然,無自而発。政使或爾,但厳守己界,恬不与校,久而彼自馴伏矣。況彼兵一動,守土者非有上命,坐視而不敢前,比許追襲,則已雉兔逃而禽鳥散矣。由是而論,安静不競者為上,恬無所求者次之,邀功生事,妄開辺釁,斯為下矣。」官於遠方者,尚監於茲。
書き下し
或るひと問う、「遠方の獠民(りょうみん)、溪洞(けいどう)に巢居し、猛にして讋(おそ)れしむる能わず、寛にして懷(なつ)くる能わず、喜べば則ち人、怒れば則ち獸なり、朝廷の德澤を宣べんと欲すれば、之を若何(いかん)にせば可ならんか」と。餘曰く、「物の凶狠(きょうこん)なる、虎狼の若きは無し、然れども之をして左右前後、惟(た)だ吾の聽くのみならしむるは、其の之を制する術を得ればなり。夫れ剛に克(か)つは柔に若くは莫く、繁を治むるは簡に如くは莫し。且つ彼の反側(はんそく)して恆ならざる所以は、亦た必ず由有り。或いは其の財を貪り、或いは其の境を蹙(せば)め、或いは其の子女を俘(とりこ)にし、或いは其の官屬を蔑(ないがし)ろにし、以て蟻結蜂屯(ぎけつほうとん)し、其の酷毒を肆(ほしいまま)にするに致る。苟(いやし)くも之を安んじて擾(みだ)さず、之を外(そとに)して事とする所無くば、忿然たらんと欲すと雖も、自(よ)りして發する無し。政(たと)い或いは爾(しか)らしむとも、但だ嚴に己が界を守り、恬(てん)として與(とも)に校(あらそ)わずんば、久しくして彼自ら馴伏(じゅんぷく)せん。況(いわん)や彼の兵一たび動けば、土を守る者上命有るに非ざれば、坐視して敢えて前(すす)まず、比(このごろ)追襲を許せば、則ち已(すで)に雉兔(ちと)逃げて禽鳥散ずるをや。是に由りて之を論ずれば、安靜にして競わざる者を上と為し、恬として求むる所無き者は之に次ぎ、功を邀(もと)め事を生じ、妄りに邊釁(へんきん)を開く、斯(こ)れ下と為す」と。遠方に官たる者、尚(ねが)わくは茲(ここ)に監みよ。
現代語訳
ある人が尋ねた。「遠方の異民族は、谷や洞穴に巣くうように暮らし、猛々しく威圧しても恐れず、寛大に接しても懐かない。喜べば人らしく、怒れば獣のようになる。朝廷の恩恵を及ぼそうとするには、どうすればよいか」と。私は答えた。「凶暴なものといえば虎や狼に勝るものはないが、それでも人の意のままに従わせられるのは、これを制する術を得ているからである。剛強に打ち勝つには柔和に勝るものはなく、複雑な事態を治めるには簡明に勝るものはない。そして彼らが落ち着かず反抗的である理由には、必ず原因がある。財産を奪われたか、領地を狭められたか、子女を捕らえられたか、その役人を軽んじられたか、いずれかであり、それゆえ群がり集まって激しく害をなすに至る。もし彼らを安んじて乱さず、干渉することがなければ、たとえ憤ろうとしても、その発端がない。たとえ何か事が起きたとしても、ただ厳しく自分の領域を守り、平然と争わずにいれば、やがて彼らは自然と懐き従うだろう。まして彼らの兵が一度動けば、領土を守る者は上からの命令がなければ手をこまねいて前に進まず、この頃追撃を許可すれば、すでに獲物は逃げ去った後である。これを論じれば、静かに構えて争わない者が上策、平然として求めるところのない者がその次、功を求めて事を起こし、みだりに辺境の紛争を開く者が下策である」と。遠方の地に赴任する官吏は、この教えを心に留めるべきである。
解説
この章句が説くこと
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牧民忠告・宣化或るひと謂う、「民に豪強(ごうきょう)有れば、則ち治を致す能わず」と。是れ殆(ほとん)ど貪邪(たんじゃ)の吏の為に發するなり。夫れ豪強の敢えて橫たる所以の者は、牧民する者の以て之を縱(ゆる)す有るに由るなり。何ぞや、之と交私するが故なり。苟くも其の私を絕たば、聲色を動かさずして其の膽(たん)をして落とさしむべし。語に曰く、「其の身正しければ、令せずして行わる」と。又た曰く、「怒らずして民鈇鉞(ふえつ)より威あり」と。信なるかな。
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牧民忠告・事長尊卑の分定まれば、則ち家に逆子無く、国に叛臣無し。夫れ国の亡ぶる所以、家の敗るる所以は、皆卑の尊有らずして、尊の卑を制する能わざるの致す所に由るなり。諸(これ)を歴代に考うるに、厥(そ)の監(かがみ)甚だ明らかなり。今夫れ上は朝廷、下は郡邑、其の官を設くるや、長有り、弐(に)有り、幕属有り、胥吏(しょり)有り、各々其の分に安んじて其の事に事(つか)えれば、天下安(いずく)んぞ治まらざる有らんや。惟だ其れ小智自私、同寅(どういん)の義に乖(そむ)き、協恭(きょうきょう)の誠無く、衷(ちゅう)既に和せざれば、則ち所見必ず同じからざる者有り。或いは長官侍佐(じさ)弐の礼を知らず、或いは佐弐長官に事うるの道に闇(くら)し、少しく辞色を見(あらわ)せば、則ち彼我胥(あい)失う。若し夫れ事例爾(しか)るべくして、所見或いは同じからざれば、下に居る者は当に其の意を誠にし、其の辞を婉(えん)にし、其の容体を卑(ひく)くして、以て其の上を開くべし。若し尤も未だ允(ゆる)されざれば、則ち其の退くを俟(ま)ちて之を家に語る。人は木石に非ず、回らざるの理無し。其れ或いは下に居る者に不可なる所有らば、長たる者も亦当に是くの如く之を暁(さと)すべきなり。稍(やや)抉(えぐ)る所有りて、強縦(きょうしょう)有りと雖も、退きて必ず堪えざる者有り、日に引き月に深く、終に泄露(せつろ)するに於いてす。人其の乖忤(かいご)を見るなり。讒譖(ざんしん)の言、之に乗じて入る。久しければ則ち訟必ず興り、政事隳(やぶ)れん。一時の忿(いきどお)りの為に同僚の心をして離れしめ、闔境(こうきょう)の民治まるを得ざれば、則ち其の人の褊浅(へんせん)なること知る可し。古人言えること有り、「必ず忍ぶこと有りて、乃ち其れ済(な)す有り」と。又曰く、「忍は衆妙の門為り」と。旨(むね)なるかな。
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牧民忠告・御下治を為すの道、其の要は心を省(はぶ)くに如(し)くは莫し。心省けば則ち事省け、事省けば則ち民安し、民安ければ則ち吏資(と)る所無し。一(ひと)たび或いは紛然たれば、上下胥(みな)其の擾(みだ)れに罹(かか)る。然れども事も亦(また)必ず省く能わざる者有り、則ち又夫(か)の措画堤防(そかくていぼう)の術如何(いかん)に在るのみ。古人謂う、「算多きは算少なきに勝ち、算少なきは算無きに勝つ」と。特(ひと)り兵を用うるを然りと為すのみならず、一役(いちえき)の修め、一宴の設け、一獄の興り、誠に能く思慮周詳(しりょしゅうしょう)にして繁略畢(ことごと)く挙がれば、則ち民の賜を受くること浅からず。某(それがし)嘗て県を為(おさ)むるに、胥吏(しょり)輩(はい)春には則ち農を追いて以て農桑を報じ、夏には則ち尉を檄(げき)して以て卒伍を練り、秋には則ち社を会して以て義糧を検し、冬には則ち芻(すう)を賦(ふ)して以て尚馬(しょうば)を飼い、其の它(た)逃兵(とうへい)・亡戸(ぼうこ)・逸盗(いっとう)及び積年逋税(ふぜい)の民の若きは、動(やや)もすれば百余を集め、賄(まいな)わざれば釈(ゆる)さず。某其の然るを見て、常に牘(とく)を揮(ふる)いて署を為さず。暇あれば則ち一二の謹厚(きんこう)の吏を将(ひき)いて、親(みずか)ら其の地に詣(いた)りて之を按(あん)ず、擬す可き者は擬し、行う可き者は行う。是(これ)に由りて一切惟(た)だ信版(しんぱん)を以て事を集め、吏人志を失い、百姓安きを獲(え)たり。今に至るまで旁郡(ぼうぐん)以て例と為す。
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牧民忠告・聽訟親族相訟(あいうった)うるは、宜しく徐(しず)かなるべくして亟(すみや)かなるべからず、宜しく寛なるべくして猛なるべからず。徐かなれば則ち或いは其の非を誤る。猛なれば則ち益々其の悪を滋(しげ)らしむ。第(ただ)其の里中(りちゅう)に下してこれを開諭(かいゆ)せしめば、斯(こ)れ体(たい)を得たり。
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牧民忠告・聽訟民に妖言(ようげん)もて衆(しゅう)を惑わす者有らば、則ち当に別罪(べつざい)を仮りて之を罪すべし。如(も)し妄書(もうしょ)有らば、取りて之を火(や)けば、則ち厥(そ)の跡滅す。蔓(はびこ)らせて大獄(たいごく)と為し、禍(わざわい)を無辜(むこ)に延(の)ばさしむる勿(な)かれ。
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牧民忠告・御下小にしては一邑(いちゆう)と為り、大にしては天下と為るも、賞罰明らかなれば、則ち声色を煩わさずして威令自(おのずか)ら行わる。人徒(ただ)民を治むるの難きを知りて、吏を治むるの尤(もっと)も難きを知らず。蓋し吏は官と比(ひ)し、詭詐(きさ)生じ易し。民は官に遠く、理法を知る能わず、誤(あやま)って然(しか)して犯す、宜(むべ)なるかな矜(あわれ)む可きがごとし。吏は則ち日(ひび)法律の中に処り、知らざるに非ざるなり、小過懲(こ)らさざれば、必ず大患を為し、忌憚(きたん)する所無からん。嘗て聞く、「民を治むるは目を治むるが如し、撥触(はっしょく)すれば則ち益々昏(くら)し。吏を治むるは歯牙(しが)を治むるが如し、剔漱(てきそう)すれば則ち益々利(と)し」と。《伝》に曰わく、「威其の愛に克てば允(まこと)に済(な)る、愛其の威に克てば允に罔(あやま)る」と。功(こう)此れに法(のっと)りて行わば、断じて治め難きに至らじ。