正法眼蔵随聞記 / 巻六
古人の云く、言は天下に滿れども口過なく、行天下に遍けれども怨害なしと、是れ卽ち云べき所を云ひ、行ふべき事を行ふ故なり、是れは至德要道の言行なり、世間の言行も、私曲を以てはからひ行ふは、おそらくは過のみあらん、納子の言行は先證是れ定れり、私曲を存ずべからず、佛祖行じ來れる道なり、
新字:古人の云く、言は天下に満れども口過なく、行天下に遍けれども怨害なしと、是れ即ち云べき所を云ひ、行ふべき事を行ふ故なり、是れは至徳要道の言行なり、世間の言行も、私曲を以てはからひ行ふは、おそらくは過のみあらん、納子の言行は先証是れ定れり、私曲を存ずべからず、仏祖行じ来れる道なり、
書き下し
古人の云く、言は天下に満れども口過なく、行天下に遍けれども怨害なしと、是れ即ち云べき所を云ひ、行ふべき事を行ふ故なり、是れは至徳要道の言行なり、世間の言行も、私曲を以てはからひ行ふは、おそらくは過のみあらん、納子の言行は先證是れ定れり、私曲を存ずべからず、仏祖行じ来れる道なり、
現代語訳
古人は言った、言葉が天下に満ちても口の過ちがなく、行いが天下に行き渡っても怨みや害がない、と。これはつまり、言うべき所を言い、行うべき事を行うからである。これは至徳要道の言行である。世間の言行も、私の曲がった心をもってはからい行うのは、おそらく過ちばかりであろう。雲水の言行は、先の証しがこれと定まっている。私曲を抱いてはならない。仏祖が行じて来た道である。
解説
孝経の一句を引いて、過ちのない言行とは何かを説く。言うべき所を言い行うべき事を行うだけ、という定義が簡素で、過ちが出るのは私曲すなわち自分の都合が入る時だとされる。僧には仏祖の先例があるのだから、自分ではからう余地はないと結ばれる。判断を減らすことが、そのまま過ちを減らす道になっている。迷う場面を、先例で埋めておくという考え方である。
この章句が説くこと
言行私曲過先例孝経道
関連する章句
-
『墨子』貴義子墨子曰く、言、以て行いを遷すに足る者は、之を常とす。以て行いを遷すに足らざる者は、常とする勿かれ。以て行いを遷して之を常とするは、是れ口を蕩かすなり。
-
『墨子』耕柱子墨子曰く、「言、以て行いを復するに足る者は、之を常とす。以て行いを舉ぐるに足らざる者は、常とする勿かれ。以て行いを舉ぐるに足らずして之を常とするは、是れ口を蕩かすなり」と。
-
『大和俗訓』巻之六・躬行上一中庸曰く、言は行を顧み、行は言を顧みる。言ふ意は、言と行とは相違なかるべし。言を出すに、わが身の行をかへりみて言ふべし。事を行ふには、己が言をかへりみて行ふべし。言ふ事はやすく、行ふ事はかたし。故に言はひかへていひ、行は言より過すべし。如此すれば、言と行と相違なし。口にいふ事あまり有りて、身に行ふ事足らざるは、是言行のそむけるなり。恥づべし。
-
『五常訓』巻之五・信一子路無宿諾とは、一たび行はんと心にうけごひたる事を、延引せず、すみやかに行はれしとなり。是信ある所なり。一信は心に誠あるなり。心に誠あれば、言行の上にあらはる。言は行をかへりみていひ、行は言をかへりみて行ふ。是言行共に信あるなり。もし身に行はざる事を口にいひ、口に言ふ事を身に行はざるは、是言行共に信なきなり。言ふ事は易く、行ふ事はかたし。故に言をばひかへ、行をば過すべし。是信を行ふ道なり。
-
『後世への最大遺物』第一回・そんなら今拵えてみたまえ金は宇宙のものであるから、金というものはいつでもできるものだという人に向って、フランクリンは答えて「そんなら今拵えてみたまえ」と申しました。それで私に金などは要らないというた牧師先生はどういう人であったかというに、後で聞いてみると、やはりずいぶん金を欲しがっている人だそうです。それで金というものは、いつでも得られるものであるということは、われわれが始終持っている考えでございますけれども、実際、金の要るときになってから、金というものは得るに非常にむずかしいものです。そうしてあるときは富というものは、どこでも得られるように、空中にでも懸っているもののように思いますけれども、その富を一つに集めることのできるものは、これは非常に神の助けを受くる人でなければできないことであります。
-
『慎思録』巻之二匡衡の治性正家を論ずるの疏、及び妃匹を戒め経学を勧むるの疏、其の立論は経術に本づき、其の説は頗る純正にして理有り。朱子の詩伝も、復た其の説を取る。真西山以謂へらく、仲舒の亜為るべし、と。宜なるかな。惜しむべきは其の素行と学術と相乖戻す。其の言を履むこと能はずと謂ふべきなり。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る