正法眼蔵随聞記 / 巻五
泉大道の云く、風に向て坐し、日に向て眠る、時の人の錦を被たるに勝りたり云云、是の言は、古人の語なりといへども少し疑ひあり、時の人と云は、世間貪利の人を云か、若し然らは敵對最も下れり、何ぞ云ふに足らん、若しは學道の人を云か、然らば何ぞ錦を被たるに勝れりと云ふや、此の心を察するに、猶を錦を重もんずる心有るかと聞えたり、聖人は然あらず、金玉と瓦礫と齊く執することなし、故に釋迦如來牧牛女が乳粥を得て食し、馬麥を得て食す、いづれも等くす、
新字:泉大道の云く、風に向て坐し、日に向て眠る、時の人の錦を被たるに勝りたり云云、是の言は、古人の語なりといへども少し疑ひあり、時の人と云は、世間貪利の人を云か、若し然らは敵対最も下れり、何ぞ云ふに足らん、若しは学道の人を云か、然らば何ぞ錦を被たるに勝れりと云ふや、此の心を察するに、猶を錦を重もんずる心有るかと聞えたり、聖人は然あらず、金玉と瓦礫と斉く執することなし、故に釈迦如来牧牛女が乳粥を得て食し、馬麦を得て食す、いづれも等くす、
書き下し
泉大道の云く、風に向て坐し、日に向て眠る、時の人の錦を被たるに勝りたり云云、是の言は、古人の語なりといへども少し疑ひあり、時の人と云は、世間貪利の人を云か、若し然らは敵対最も下れり、何ぞ云ふに足らん、若しは学道の人を云か、然らば何ぞ錦を被たるに勝れりと云ふや、此の心を察するに、猶を錦を重もんずる心有るかと聞えたり、聖人は然あらず、金玉と瓦礫と斉く執することなし、故に釈迦如来牧牛女が乳粥を得て食し、馬麦を得て食す、いづれも等くす、
現代語訳
ある日、参のついでに示して言われた。泉大道は言った、風に向かって坐し、日に向かって眠る。時の人が錦を着ているのにまさっている、と。この言葉は古人の語であるけれども、少し疑いがある。時の人というのは、世間で利を貪る人を言うのか。もしそうであれば、比べる相手がもっとも劣っている。どうして言うに足りようか。もしくは道を学ぶ人を言うのか。そうであれば、どうして錦を着ているのにまさっていると言うのか。この心を察するに、なお錦を重んずる心があるのかと聞こえる。聖人はそうではない。金玉と瓦礫とを等しく見て執着することがない。だから釈迦如来は牧牛の女が捧げた乳粥を得て食し、馬の食う麦を得て食した。どちらも等しくされた。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十二編・人の品行は高尚ならざるべからざるの論・事物の有様を比較して上流に向かいしからばすなわち、人の見識を高尚にして、その品行を提起するの法いかがすべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、みずから満足することなきの一事にあり。ただし有様を比較するとはただ一事一物を比較するにあらず、この一体の有様と、かの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざるべからず。譬えば今、少年の生徒、酒色に溺るるの沙汰もなくして謹慎勉強すれば、父兄・長老に咎めらるることなく、あるいは得意の色をなすべきに似たれども、その得色はただ他の無頼生に比較してなすべき得色のみ。謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず。広く古今の人物を計え、誰に比較して誰の功業に等しきものをなさばこれに満足すべきや。必ず上流の人物に向かわざるべからず。あるいは我に一得あるも彼に二得あるときは、我はその一得に安んずるの理なし。いわんや後進は先進に優るべき約束なれば、古を空しゅうして比較すべき人物なきにおいてをや。今人の職分は大にして重しと言うべし。
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