宋名臣言行録 / 前集巻四・王曙
謝希深歐陽永叔官洛陽時同游嵩山歸暮抵龍門香山雪作留守錢文僖公遣吏以厨傳歌妓至且勞之曰山行良勞少留龍門賞雪府事簡無遽歸也錢遇諸公之厚類此公代錢為留守御吏如束濕諸公俱不堪其憂日訝其多出游責曰公等自比萊公何如萊公尚坐奢縱取禍貶死況其下者乎希深而下不敢對永叔取手板起立曰莱公之禍不在杯酒在老不知退爾時公年已髙若為之動卒薦永叔入館
新字:謝希深欧陽永叔官洛陽時同游嵩山帰暮抵竜門香山雪作留守銭文僖公遣吏以厨伝歌妓至且労之曰山行良労少留竜門賞雪府事簡無遽帰也銭遇諸公之厚類此公代銭為留守御吏如束湿諸公倶不堪其憂日訝其多出游責曰公等自比萊公何如萊公尚坐奢縦取禍貶死況其下者乎希深而下不敢対永叔取手板起立曰莱公之禍不在杯酒在老不知退爾時公年已高若為之動卒薦永叔入館
書き下し
謝希深・歐陽永叔、洛陽に官する時、同に嵩山に游ぶ。歸り、暮に龍門・香山に抵る。雪作る。留守錢文僖公、吏を遣わし厨傳・歌妓を以て至らしむ。且つ之を勞いて曰く、山行良に勞す。少しく龍門に留まりて雪を賞せよ。府事簡なり。遽かに歸る無かれと。錢の諸公に遇すること之れ厚きこと此に類す。公、錢に代わりて留守と為る。吏を御すること束濕の如し。諸公俱に其の憂いに堪えず。日に其の多く出游するを訝り、責めて曰く、公等、自ら萊公に比す。何如。萊公すら尚お奢縱に坐して禍を取り貶死す。況んや其の下なる者をやと。希深より下、敢えて對えず。永叔、手板を取りて起立して曰く、莱公の禍は杯酒に在らず。老いて退くを知らざるに在るのみと。時に公の年已に髙し。若し之が為に動く。卒に永叔を薦めて館に入らしむ。
現代語訳
謝絳と欧陽脩が洛陽に勤めていたころ、いっしょに嵩山に遊んだ。帰り道、日暮れに龍門・香山に着いた。雪が降り出した。留守の銭惟演が役人をやって、料理と歌妓を届けさせた。そのうえねぎらって言った。「山歩きはさぞ疲れたろう。しばらく龍門に留まって雪を賞でるがよい。役所の仕事は少ない。急いで帰ることはない」。銭惟演が人々を遇することの厚さは、こういう調子であった。公が銭惟演に代わって留守となった。役人を御すること、濡れた縄を束ねるように厳しかった。人々はみなその憂鬱に堪えられなかった。公は彼らがしきりに遊びに出るのを不審に思い、責めて言った。「君らは自分を萊公になぞらえているのか。どうだ。あの萊公でさえ、贅沢と放縦のせいで禍を招き、流されて死んだのだ。まして、その下の者ならなおさらだろう」。謝絳以下、誰も答えられなかった。欧陽脩は笏を取って立ち上がって言った。「萊公の禍は、酒杯にあったのではありません。年老いて退くことを知らなかったところにあったのです」。当時、公の年はもう高かった。それに動かされたようだった。ついに欧陽脩を推薦して館職に入れた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・尊賢晋の文侯、地を行きて隧に登るに、大夫皆之を扶く。隨会扶けず。文侯曰く、「会よ、夫れ人臣為りて其の君を忍ぶ者は、其の罪奚如ん」と。対えて曰く、「其の罪重死なり」と。文侯曰く、「何をか重死と謂う」と。対えて曰く、「身死し、妻子戮せらる」と。隨会曰く、「君奚ぞ独り人臣為りて其の君を忍ぶ者を問いて、人君為りて其の臣を忍ぶ者を問わざるや」と。文侯曰く、「人君為りて其の臣を忍ぶ者は、其の罪何如ん」と。隨会対えて曰く、「人君為りて其の臣を忍ぶ者は、智士謀を為さず、弁士言を為さず、仁士行を為さず、勇士死を為さず」と。文侯綏を援きて車を下り、大夫に辞して曰く、「寡人に腰髀の病有り、願わくは諸大夫罪する勿かれ」と。
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、昔し国王あり、国を治て後ちに諸の臣下に問ふ、我好く国を治む、よく賢なりやと、諸臣みな云く、帝甚だよく治む、太だ賢なりと、時に一臣ありて云く、帝は賢ならずと、帝の云く故は如何、臣が云く、国を治て後ち、帝の弟に与へずして息に与ふと、帝の心にかなはずして、追ひ立られて後、亦一臣に問ふ、朕よく仁なりや、臣が云く、甚だ仁なり、帝の云く、其の故いかん、臣が云く、仁君には必ず忠臣あり、忠臣は直言あるなり、前きの臣太だ直言なり、是れ忠臣なり、仁君にあらずんば得じと、帝是を感じて、即ち前きの臣をめしかへさるゝなり、
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『塩鉄論』箴石篇賢良曰く、賈生に言有り、『懇言すれば則ち辭淺くして入らず、深言すれば則ち耳に逆らいて指を失う』と。故に曰く、『談何ぞ容易ならんや』と。談すら且つ易からず、而るを況んや之を行うをや。此れ胡建の其の死を得ざりし所以にして、吳得の幾んど患いを免れざりし所以なり。語に曰く、『五盜一良人を執え、枉木は直繩を惡む』と。今、箴石を下し、關鬲を通ぜんと欲すれば、則ち恐らくは盛・胡の累有らん。箴を懷き艾を橐にすれば、則ち不工の名を被らん。『狼は其の胡を跋み、載ち其の尾を踕む』と。君子の路、行止の道は固より狹きのみ。此れ子石の嘆息せし所以なり。
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史記 張丞相列伝周昌は、沛の人なり。其の従兄を周苛と曰ふ。秦の時皆泗水の卒史為り。高祖沛に起ち、泗水の守・監を撃破するに及び、是に於て周昌・周苛、卒史より沛公に従ふ。沛公、周昌を以て職志と為し、周苛を客と為す。従ひて関に入り、秦を破る。沛公立ちて漢王と為り、周苛を以て御史大夫と為し、周昌を中尉と為す。漢王の四年、楚、漢王を滎陽に囲むこと急なり。漢王遁れ出で去りて、周苛をして滎陽城を守らしむ。楚、滎陽城を破り、周苛をして将たらしめんと欲す。苛罵りて曰く、「若(なんぢ)趣(すみや)かに漢王に降れ。然らずんば、今に虜と為らん」と。項羽怒り、周苛を亨(に)る。是に於て乃ち周昌を拝して御史大夫と為す。常に従ひて項籍を撃破す。六年中を以て蕭・曹等と倶に封ぜらる。周昌を封じて汾陰侯と為す。周苛の子周成は父の事に死せしを以て、封ぜられて高景侯と為る。昌は人と為り彊力にして、敢へて直言す。蕭・曹等より皆之に卑下す。昌嘗て燕の時に入りて事を奏す。高帝方に戚姫を擁す。昌還り走る。高帝逐ひて得、周昌の項に騎りて、問ひて曰く、「我は何如なる主ぞや」と。昌仰ぎて曰く、「陛下は即ち桀紂の主なり」と。是に於て上之を笑ふ。然れども尤も周昌を憚る。
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『春秋左氏伝』昭公八年 陳の滅亡冬、十一月、壬午、陳を滅ぼす。輿嬖袁克、馬を殺し玉を毀ちて以って葬る。楚人將に之を殺さんとす。之を寘かんことを請ふ。既にして又私せんことを請ふ。幄に私し、絰を顙に加へて逃る。穿封戌をして陳公為らしめて曰く、「城麇の役に諂はず」と。王に侍して酒を飲む。王曰く、「城麇の役、女寡人の此に及ぶを知らば、女其れ寡人を辟けんか」と。對へて曰く、「若し君の此に及ぶを知らば、臣必ず死を致して禮もて以って楚を息めん」と。晉侯史趙に問ひて曰く、「陳其れ遂に亡びんか」と。對へて曰く、「未だし」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「陳は顓頊の族なり。歲鶉火に在りて、是を以って卒に滅ぶ。陳も將に之の如くならん。今析木の津に在り、猶ほ將に復た由らんとす。且つ陳氏齊に政を得て、而る後に陳卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふ無し。舜之に重ぬるに明德を以ってし、德を遂に寘く。遂世々之を守る。胡公の淫せざるに及び、故に周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。臣聞く、盛德は必ず百世祀らる、と。虞の世數未だし。繼ぎて守るは將に齊に在らんとす。其の兆既に存せり」と。
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『春秋左氏伝』昭公元年 博物の君子以って其の體を露(やつ)れしむること勿し。茲(ここ)に心爽(あき)らかならずして、百度を昏亂す。今乃ち之を壹にすること無からんや、則ち疾を生ぜん。僑又之を聞く、内官は同姓に及ばず。其の生殖せず。美先づ盡くれば、則ち相疾を生ず。君子是を以って之を惡む。故に志に曰く、『妾を買ひて其の姓を知らざれば、則ち之を卜せよ』と。此の二者に違ふは、古の慎む所なり。男女姓を辨ずるは、禮の大司なり。今君の内に實に四姬有り、其れ乃ち是れ無からんや。若し是の二者に由らば、為す可からざるのみ。四姬省くこと有らば、猶ほ可なり。無くんば則ち必ず疾を生ぜん」と。叔向曰く、「善い哉。肸未だ之を聞かざるなり。此れ皆然り」と。叔向出づ。行人揮之を送る。叔向鄭の故を問ひ、且つ子皙を問ふ。對へて曰く、「其れ幾何ぞ。禮無くして好んで人を陵ぎ、富を怙(たの)みて其の上を卑しむ。久しきこと能はじ」と。晉侯子產の言を聞きて曰く、「博物の君子なり」と。重く之に賄す。

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