正法眼蔵随聞記 / 巻一
夜話に云く、世人多く善事を作す時は、人に知られんと思ひ、惡事を作す時は、人に知られじと思ふに依て、此の心冥衆の心に合はざるに依て、所作の善事には感應なく、密に作す所の惡事には罸あるなり、是に仍て還て自ら謂く善事には驗しなし、佛法の利益すくなしと思へるなり、是れ卽ち邪見なり、最も改むべし、人も知らざる時に密に善事をなし、惡事を錯りて、後には發露してとがを悔ゆ、かくの如くすれば、便ち密々になす處の善事には感應あり露るゝ惡事は懺悔せられて、罪滅する故に、自然に現益もあるなり、當果をも亦知るべし、爰に有る在家人來りて、
新字:夜話に云く、世人多く善事を作す時は、人に知られんと思ひ、悪事を作す時は、人に知られじと思ふに依て、此の心冥衆の心に合はざるに依て、所作の善事には感応なく、密に作す所の悪事には罰あるなり、是に仍て還て自ら謂く善事には験しなし、仏法の利益すくなしと思へるなり、是れ即ち邪見なり、最も改むべし、人も知らざる時に密に善事をなし、悪事を錯りて、後には発露してとがを悔ゆ、かくの如くすれば、便ち密々になす処の善事には感応あり露るゝ悪事は懺悔せられて、罪滅する故に、自然に現益もあるなり、当果をも亦知るべし、爰に有る在家人来りて、
書き下し
夜話に云く、世人多く善事を作す時は、人に知られんと思ひ、悪事を作す時は、人に知られじと思ふに依て、此の心冥衆の心に合はざるに依て、所作の善事には感応なく、密に作す所の悪事には罰あるなり、是に仍て還て自ら謂く善事には験しなし、仏法の利益すくなしと思へるなり、是れ即ち邪見なり、最も改むべし、人も知らざる時に密に善事をなし、悪事を錯りて、後には発露してとがを悔ゆ、かくの如くすれば、便ち密々になす処の善事には感応あり露るゝ悪事は懺悔せられて、罪滅する故に、自然に現益もあるなり、当果をも亦知るべし、爰に有る在家人来りて、
現代語訳
夜話に言われた。世の人の多くは、善事をなすときには人に知られたいと思い、悪事をなすときには人に知られまいと思う。この心が冥衆の心に合わないので、なした善事には感応がなく、ひそかになした悪事には罰があるのである。それによって、かえって自ら、善事には効き目がない、仏法の利益は少ないと思うのである。これはすなわち邪見である。もっとも改めるべきである。人も知らないときにひそかに善事をなし、悪事をあやまってなしたら、後には露わにして咎を悔いる。このようにすれば、ひそかになすところの善事には感応があり、露わになる悪事は懺悔されて罪が滅するから、自然に現世の益もあるのである。当来の果もまた知るべきである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻四文に云く、ほめて白品の中にあるを善と云ふ、そしりて黒品の中におくを悪と云ふと、亦云く、苦を受くべきを悪と云ふ、楽をまねくべきを善と云ふと、かくの如く子細に分別して、真実の善を見て行し、真実の悪を見てすつべきなり、僧は清浄の中より来れるものなれば、人の欲を起すまじきものを以てよしとし、きよきとするなり、示して云く、
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『正法眼蔵随聞記』巻四示して云く、善悪と云ふこと定め難し、世間の人は綾羅錦繡をきたるをよしと云ふ、麁布糞掃衣をわるしと云ふ、仏法には此れをよしとし、清しとし、金銀錦綾をわるしとし、けがれたりとす、かくの如く、一切のことにわたりて皆然り、予が如きも、聊か韻声をとゝのへ、文字をかきすぐるゝを、俗人等は尋常ならぬことに云もあり、亦有人は出家学道の身としてかくの如きのこと知れるとそしる人もあり、いづれをか定めて善として取り、悪としてすつへきぞ、
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葉隠・聞書第二悪事の引合いは貪瞋痴(とんじんち)、吉事の引合いは智仁勇(ちじんゆう)に洩れず、よく撰(え)り分けたるものなり。世上の悪事出来たる時、引合いて見るに、貪瞋痴と、吉事を引合いて見るに、智仁勇に洩れずとなり。
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『正法眼蔵随聞記』巻二吾が心に善しと思ひ、亦世人のよしと思ふこと、必らずしも善からず、然あれば人めもわすれ、吾が意をもすてゝ、仏教に随がひゆくなり、身もくるしく、心も愁ふるとも、我が身心をば一向にすてたるものなればと思ふて、苦るしくうれへつべきことなりとも、仏祖先徳の行履ならばなすべきなり、此の事はよきこと仏道にかなひたらめと思ふて、なしたく行じたくとも、もし仏祖の行履に無からん事はなすべからす、
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『正法眼蔵随聞記』巻二夜話に云く、学道の人は人情を棄べきなり、人情をすつると云は、仏法に随がひ行くなり、世人多く小乗根性にて、善悪をわきまへ、是非を分ちて、是をとり非をすつるは、みな是れ小乗根性なり、只先つ世情をすてゝ仏道に入るべし、仏道に入るには、我こゝろに善悪を分ちて、よしと思ひ、悪しゝと思ふことをすてゝ、我が身よからん我が意なにとあらんと思ふ心をわすれて、善くもあれ、悪くもあれ、仏祖の言語行履に随がひゆくなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五一日雑談の次でに示じて云く、人の心本より善悪なし、善悪は縁に随て起る、喩へば人発心して山林に入る時は、林下はよし人間は悪しとおほゆ、亦退屈の心にて山林を出る時は、山林は悪しとおぼゆ、是れ即ち決定して心に定相なし、縁に随て兎も角もなるなり、かるが故に善縁にあへば心よくなり、悪縁に近づけば心悪くなるなり、我が心本より悪しと思ふことなかれ、只善縁に随ふへきなり、