幽夢影 / 巻下・鏡は自ら照らす能はず
鏡不能自照,衡不能自權,劍不能自擊。
新字:鏡不能自照,衡不能自権,剣不能自撃。
書き下し
鏡は自ら照らす能はず、衡は自ら權る能はず、劍は自ら擊つ能はず。
現代語訳
鏡は自分自身を映すことができず、秤は自分自身を量ることができず、剣は自分自身を撃つことができません。
解説
他を映し量り斬るものが、自分には向けられないことを三つ並べた短い一則です。鏡はあらゆるものを映しますが、自分の姿は映せません。衡は秤のことで、どんな物の重さも量れますが、自分の重さは量れません。剣は何でも斬れますが、自分を斬ることはできません。当局者は迷い、傍観者は清し、という言葉があるように、人もまた他人のことはよく見えるのに、自分のことは見えにくいものです。友人の倪永清は「詩は自ら伝わることができず、文は自らほめることができない」と、龐天池は「美は自ら見ることができず、醜は自ら隠すことができない」と続けています。自分を知るには、信頼できる他人の目を借りることが必要だと気づかされます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
自省鏡客観謙虚修身
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